二月六日(月)甲子(舊正月十日 晴

 

今日の讀書・・午前中、どうも起きられなくて、横になつたまま、『宇都保俊蔭』 を讀みつづけました。すらすらと讀めるわりには、内容が幻想的な物語なので、想像力を働かせながらも、注釋書をちらちら見ながらの苦難の讀書の旅であります。 

晝食は、甥家族が來たので、ます屋さんの鍋燒きうどんを取つていただきました。その娘が二歳になり、歩くのはもちろん、お喋りは父親ゆづりで可愛いです。それで、とつておきの折り紙を出してきて折つてあげました。が、すぐにあきてしまひました。 

 

千葉市を再発見しよう!》(七)

 

京成稻毛驛から千葉驛まで、新京成と書かれた電車に乘り、JR千葉驛の驛ビルなのかそごうなのか、たうとう分からずじまいでしたが、その半地下の食堂で、各自好きなものをとつていただきました。ぼくはミソラーメンにしました。 

いやあ、わかりずらいビルといふか驛です。でも、永田さんの引率でどうにかバスに乘り、つぎの目的地、千葉城へ到着することができました。 

まあ、お城の形をしてゐますから古くからの千葉城と思つたのですが、正しくは、「千葉市立郷土博物館」でありまして、ほんとうの城郭ではありません。まあ、氣分はお城ですけどね。 

 

「猪鼻城の土塁跡が残る亥鼻公園内に建つ、城をモチーフにした5階建の博物館。古代から中世にかけて下総国を中心に活躍した千葉氏に関する資料の展示や調査研究活動のほか、千葉市の歴史や民俗に関する資料を展示している。企画展や特別展、催し物も開催されている。館の最上階は展望室になっており、市街を一望できる」、とあります。 

「城をモチーフにした建物」といへば、『將門紀行』で訪ねた石下驛そばの、あのお城! 常総市地域交流センターといふのださうですが、「なんとも情けないことにこうした史実とは異なる『復元』の試みは各地でみられます」、と言はれてゐるのですね。ですから、兩方とも、「復元」ではなく、和風建築(?)といふらしいです。 

でも、入館無料、解説者つきでいろいろと勉強になりました。特に、三階の常設展示室の、千葉氏の興亡と妙見信仰は面白かつた。 

 

千葉市の名の起こりは、桓武天皇の子孫で下總の國に據つた千葉氏にあり、その千葉氏の祖は、將門の叔父の平良文だといいます。となると、我が平將門とも因縁淺からずといふわけですね。 

千葉氏については、その後、石橋山の合戰に敗れて海路房總へと逃れた源朝の陣にいち早く參入し、鎌倉幕府の創立段階に功績をあげた千葉常胤(つねたね)を筆頭に、その後の中世全般を通じて名家の名を欲しいままにしたさうです。が、解説者の、全國にをられる「千葉」といふ姓の人は、すべてこの地から發してゐるといふ力強いお話には、氣の弱いぼくは、ちよいとたぢろいでしまひました。 

 

ところで、「猪鼻城の土塁跡が残る亥鼻公園」といふのは、千葉介常胤の父常重が、1126(大治元)年、上總國大椎城(おおじじょう)(千葉市大椎町)から據點を移して以來、1455(康正元)年、胤直が支族原胤房に追はれるまで、13330年にわたつて兩總に覇を唱へた千葉氏の據點である、といはれてゐます。その城跡のはうがぼくには興味があつたので、博物館から出たあと氣にしてゐたら、「お城」のその裏あたりに鳥居と「神明社」といふ祠があり、本丸跡であると思はれる物見臺の跡に、「猪鼻城趾」碑が苔むした姿で建つてゐました。

 

さういへば、二週間前の古書市で、内閣文庫所藏版 『源平闘諍録』 なる影印本を買つたので、ちよいと調べてみたら、「千葉氏の意図が篭る一本」だなんて書いてあつたんです。千葉氏と「源平」、どんな關係があるんでせうか(補注參照) 

 

だいぶ日が傾き、うすら寒くなつてきたなかを、みなさん黙々と歩きつづけ、今日最後の見學場所、千葉神社を訪ねました。ここは千葉の妙見樣として有名なのださうですけれど、ぼくにはなにもかもが初耳でした 

遠くの空に火事のやうな煙が立ちのぼりましたが、サイレンの音も聞こえないのでみなさんと千葉驛に向かひました。 

さあ會食です。と思ひきや、ここですといつて、永田さんの促すままに地下に降り、居酒屋に入りました。生ビールの乾杯からはじまり、酒豪のみなさんはおかはりづくし、ぼくはもつぱら食ひ氣三昧でいい氣持ちになつたところに緊急電話。修善寺の仕事が突然にまゐり込んできたのでした。 

ふり返へつてみたら、交通費と食費以外は入館などみな無料でしたね。永田さんご案内ありがたうございました。 

歩數は、一六六〇〇歩。いい運動と思ひ出の旅となりました。 

 

*補注・・『源平闘諍録』 「読み本系」に分類される古写本の一つ。『平家物語』は一般に和漢混淆文で記されていますが、本書は真名(漢字)で書かれ、千葉氏・梶原氏・熊谷氏など、坂東平氏の武士団の活躍を詳述しているのが特色です。巻一上・下、巻五、巻八上・下の五册のみが内閣文庫に伝わり、他に伝本は知られていません。奥書からは建武四年(1337)二月八日に書かれたとあり、南北朝期にまで遡る、平家諸本の中ではかなり古いものになります。 

他の『平家物語』諸本と比較し、平将門、千葉氏など坂東八平氏の武勲物語や妙見信仰に関する大幅な改作が見られ、その内容から後世のある時期に特定の目的をもって述作されたものと推察できる。このことから、坂東八平氏ひいては千葉氏宗家の系譜の正当性を主張し一族の再結集を図るため千葉氏関係者によって書かれたもの、とする見解が近年有力となっている。 

現存していない部分は改作を必要としないので、元々存在しなかったとみる説もある。冒頭の「祇薗精舎の鐘の声…」は他の『平家物語』と同じだが、「其の先祖を尋ぬれば、…」以降に独自の増補がみられ、忠盛・清盛に至る国香流伊勢平氏の記述は粗略であり混乱さえ認められるのに対し、他の諸本にはない良文について記述の多くを割き、北条氏の家系にまで及んでいる。滅び行く平家よりも坂東の武士団の活躍に力点が置かれた特異な作品である。 

・・・これ、たつた五〇〇圓で買ひましたけれど、「日本の古本屋」では、同じ本が二萬圓以上してました! 

 

今日の寫眞・・甥の娘。千葉城にて。會食。『源平闘諍録』(汲古書院)