三月四日(土)庚寅(舊二月七日 晴

 

今日は、弓友の齋藤さん、とは言へない仲になりましたが、夕食を一緒に、例の“かつ好”でいただかうといふことで、新御茶ノ水驛で待ち合はせました。 

はじめ、午後早くに會つて古本屋めぐりをし、水道橋驛に向かふ豫定でゐましたが、それが三時になつたので、一足早く出かけて、ぼくひとりで古本市を探索しました。東京古書會館と、高圓寺の西部古書會館です。 

いつものやうに、掘り出しものを探すのが目的ですから、鵜の目鷹の目で歩き回りましたが、まあ、費やした時間と勞力にみあつたものが探せたといつたところでせうか。

 

齋藤さんと待ち合はせてからは、靖國通り沿ひにならぶ古書店をひととおりみて歩きました。が、そのあと、神田の弓道具屋に行きたいといふので、新宿線で一驛、神保町驛から小川町驛まで乘り、山田弓具店を訪ねました。久しぶりに弓道具のにほひをかいでなつかしく思ひました。 

かつ好は、齋藤さんとは半年ぶりくらゐでせうか。いつ來ても美味しい。やはり、かういふ美味しいとんかつはベルリンでもむりなんでせうね? 

 

今日の讀書・・一段落したので、あらためて本箱をながめてゐたら、セネカの 『幸福なる生活について』(岩波文庫) が目にとまりました。無意識に求めてゐたのかも知れません。『人生の短かさについて』 とともに、もうなんども讀んだはづなのに、いや、だからこそ目が、心が向いたのだと思ひます。

 

行き歸りの電車と、歸宅後の寢床の中で讀みきつてしまひましたが、讀んでゐて、心が洗はれていくのが感じられました。道德も倫理も、理想や積み重ねられてきた文化遺産が、今や、バカな首相をはじめ、權力者たちによつて蹂躙され、目の前が眞つ暗といふか、風前のともしびとなつてゐる今日、ぼくたち、いや、ぼく自身がどのやうにものごとを考へ、生きなければならないかを、そつと慰めるやうに、諭すやうに敎へてくれました(歴史的假名遣ひと正字は原文通りです)。 

 

「人間社會にあつては、良い物事ほど多數者に悦ばれるといふ立派な風習は行はれてゐないのだ。最も惡いものとの證據は群衆にほかならない。だから、我々は、最も一般的に行はれてゐることをではなく、為すべき最善のことを求めようではないか、俗衆の─眞理の最も惡い解釋者たる俗衆の─氣にいられてゐることをではなく、我々に永遠の幸福を所有せしめてくれるものを。」

 

「自分の持つものに喜びを感じ、自分のつましい所有以上のものを憧れないやうな、かくの如き〔精神的〕根據をうちたてた者には、望まうと望むまいとに拘らず、不斷の快活と深いかつ奥底から生ずる喜びがつきまとふのは必然である。」

 

「眞理を逸脱した者は誰一人として幸福なる者とはいひ得ない・・。故に、幸福なる生活とは、正しい堅實な判斷の上にうちたてられた安定せる不變の生活である。」

 

「善きものを捨てて禍を選ぶことは、これ狂氣にほかならない。」

 

また、かういふことも語つてゐます。

 

「人間のゐるところは何處でも、親切を盡すべき場所である。」 

 

*補注・・セネカ[前4ころ~後65 ローマ帝国の属州ヒスパニア(スペイン)のコルドバ生まれ。若くしてストア派の哲人の名声を得ていた。カリグラ帝、クラウディウス帝の時には罪を得て8年をコルシカ島で過ごした。アグリッピーナはセネカを息子ネロの家庭教師にした。ネロが皇帝になるとセネカはその政治の実権を握り、5年間はネロの善政をささえた。しかしネロ帝の暴政が始まるとそれを制御することが出来ず、辞任し隠棲する。狂気を増したネロは、セネカに陰謀の罪を着せ、セネカは自ら毒を仰いで死んだ。彼は多くの随筆を残しており、ローマ帝政期の代表的なラテン語の文章家、哲学者として知られている。  

 

今日の寫眞・・ほーむ寫眞「ここは、どこ?」。かつ好にて他。