四月八日(土)乙丑(舊三月十二日 雨、曇り時々また雨

 

今日の讀書・・昨日求めた、金谷武洋著『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』(講談社選書メチエ) が實に面白い。昨夜は徹夜で讀みふけり、寢たのはあたりが明るくなつてからでした! 

この本の存在は前々から知つてはゐました。が、昨日は、324圓といふ安さにひかれて、たうとう買つてしまつたのであります。「日本語に主語はいらない」といふことだけなら、その理由を糺せと言はれれば困りますが、なんとなく分かつてゐました。 

むしろ、「日本語に主語はいらない」のに、あたかもあるかのやうに組み立てられてきた、「學校文法」の問題を指摘する著者のその迫力と鋭さに拍手喝采したくなる思ひで讀み通しました。いはく・・・

 

「本書のこれまでの考察から、国学者が『主語』という概念を扱わなかった理由は明らかであろう。『主語』という概念そのものが『舶来品』で、日本語の記述には本来不要であったからだ。 

日本語にとっての『主語』は、ある日突然、明治維新と並行する形で導入される。まさしく脱亜入欧の時代精神が導入させたと言うべきだろう。『主語』を日本に天下りさせた人物は、あの国民的国語辞書 『言海』 を作った大槻文彦である。」

 

明治二十四年六月に開かれた、『言海』 出版祝賀會の席上で伊藤博文が語つた言葉に注目したい。「今大槻君が十余年の辛苦に成れる言海を繙閲(はんえつ)するに、先ず欧州の文法に則りて我文典を画定し、よりて以て根拠となす」と語り、かうして「大槻の有名なテーゼ 『文は主語と説明語よりなる』は、政府公認の規範文法として、国家イデオロギーと共に定着していった」のでありますね。 

しかし、實際は、金田一京助が言ふやうに、「英語には英語の文法、日本語には日本語の文法、アイヌ語にはアイヌ語の文法があるのであり、それぞれその個性によって成り立つのである」。それなのに、歐米の文法に合はないからといつて、日本語を非論理的であり、劣つてゐるといひ、森有禮のやうに國語を英語にしようとか、志賀直哉などは、フランス語にしたらいいと言つてゐるんですね。まつたく日本人として恥づかしいことこのうへありません!

 

「『主語』をめぐる問題では、我々の先達がすでに正しい答えを持っていた。(それを)、明治以来の外來/舶来の先入観と劣等感のために、日本人はそれを捨ててしまったのである。・・・英語を通じて日本語を考えるという明治維新以来の思考法から自由にならない限り、日本語本来の自他対立の正しい意味が『再』発見され、学校文法と日本語文法が根本的に改正される日は遠のくばかりである。」 

そして、最後に、「はっきりと時代遅れとわかっている学校文法にこのまま固執するのは、英語(むしろ米語)帝国主義に追従し続けるという愚かな選択である。」

 

この本は、今から十五年も前に書かれたものですが、まさにこの苦言が現在、我が國の文化や政治の世界にまで蔓延、實現しつつあるのではないでせうか。背筋が寒くなります。 

 

今日の寫眞・・金谷武洋著『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』(講談社選書メチエ)。 

もう一枚は、虎ノ門交差點近くの”ケルン“。學生の頃、虎ノ門で働いてゐた妻とよく待ち合はせたお店です! 手前に建つのは、「虎ノ門記念碑」。

 

*補注一・・【虎ノ門】 外桜田門から芝西久保方面に出る門です。寛永13年に、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が築きました。明暦3年(1657)に焼失し、万治2年(1659)に再建されましたが、享保16年(1731)に焼失した後は、櫓門は再建されませんでした。東京メトロ銀座線の虎ノ門駅の8番出口の裏側に記念碑があり、虎がのっています。