五月七日(日)甲午(舊四月十二日 晴のちくもり

 

昨日は行き歸りの電車の中で、『猿源氏草紙』 を讀み進むことができました。ところがこの本、24頁まできたら、25頁で意味が通じなくなってしまつたのであります。 

そこで、意味が通じて讀める頁があるかどうか先のはうをめくつていつたら、35頁につながりました。が、さらに36頁まできたら、こんどはもどつて27頁につながり、さらに34頁まできたらひるがへつて25頁にもどり、26頁からは37頁につながり、以降は亂れがなくなりました!

 

かういふのは亂丁と言ふのでせうね。その名のとおり、丁(袋綴じ用に折りこんだニ頁分の用紙)が前後に亂れてゐたわけであります。さてこれは製本段階で間違つたのだらうとするのが一般常識なのでせうが、横山重さんによれば、傳本に忠實に印刷製本したといふことになります。 

ここが素人と玄人の決定的な相違なのでせうが、横山重さんは、傳へられてきた本を正確に再現するといふか複製(或いは飜刻)することこそが學問的なのであつて、それを現時點で直してしまふことは、間違つたものを後世に殘してしまふことになりかねない、とかういふことなのであります。『書物捜索』(角川書店) は、そのことがいかに大切なことかをはじめから終りまで訴へてゐる内容でした! 

 

その證據に、先日讀み終はつた 『落窪物語』、全四卷ですが、「古典文庫上」には巻一と巻三が、「古典文庫下」には巻ニと巻四が印刷されてゐました。だから、讀んだ順番に言へば、上・下・上・下の順で、たしかにさう記録しました。 

これは、校訂者が解説に書いてをりまして、原本通りに印刷したから、讀む場合は上・下・上・下と進むやうにと注意してゐます。

 

まあ、讀むだけなんだから直したつていいやうなものなんですが、要するに、過去と現在と後の時代のどの時の人も、常に同じもの(原本)に向かひ合ふことができることが大事で、さういふ資料(史料)性をどこかで歪めてはならない。そのために、傳えられたきた通りに次世代に遺すことが缺かせないことなんですね。 

もちろん、いつだれが書いて(寫して)製本し、またそれをいつだれが再版やらをしたかといふ歴史問題を含んでゐますので、これは文化の繼承といふことを考へたらとても大切なことだとぼくも思ひます。 

 

ところが、今朝寝過ごしてしまひ、肝心の 古典講読「お伽草子」への誘ひ》 を聞きそびれてしまひました。まあ、讀むといふか、取り上げる本が毎回何であるかはわかるので、それに從つて、これからも讀み通せたらいいなとは思つてゐますです。 

 

今日の讀書・・今日も寝ながら、その寢過ごした 『猿源氏草紙』 を讀み進みました。内容が面白く、たまに單語につまづくくらゐで、すらすら讀めて快感です。 

 

今日の寫眞・・ぼくが注文したので作つてくれた、妻ご自慢のハンバーク。それと、『猿源氏草紙』 の挿繪。猿源氏が遊女にかこまれてご機嫌の場面。