六月七日(水)乙丑(舊五月十三日 曇り

 

今日の讀書・・今日は、昨日西秋書店で求めた、入口敦志著『ブックレット〈書物をひらく〉2 漢字・カタカナ・ひらがな 表記の思想』(平凡社) を讀み出したのですが、これまた興味深くて、たうとう讀み切つてしまひました。まあ、ブックレットでしたしね。 

「漢字、カタカナ、ひらがなをどう用いるかは、単純な文字の選択の問題ではなく、その背景に人間社会の構造が深く関わっている。文字に身分があると言ってもよい。書かれた文章の内容もさることながら、そこで選択された表記そのものに思想があり、社会的背景があるのだ。・・・・」 

たしかに、『菅原道眞紀行』 のところで書いたやうに、もし道眞さんが左遷されて死ななければ、『古今和歌集』 は生まれなかつたかも知れませんし、『新撰萬葉集』 のやうな萬葉假名表記だつたかも知れません。『伊勢物語』 や 『土左日記』、さう、『源氏物語』 も今に傳はる文字遣ひではなかつたかも知れないと思ふと、歴史の恐ろしさ面白さを感じざるを得ません。

 

さう言へば、『平家物語』 には、漢字だけで書かれた漢文本(眞名本)、漢字カタカナ混じり本(漢字は楷書)、ひらがな本(漢字は行書)、さらに、ローマ字本(キリシタン版)までありますが、楷書とひらがなとを組み合はせた書物は、日本の古典籍のなかには「まずあり得ない」とおつしやつてゐることに、あらためて合點いたしました。 

ぼくはといへば、四十年前から、歴史的假名遣ひと正字を用ゐてゐますが、その思想といつてもねえ。ただ、我が國の古典籍や文學に近づいて、そこに息づく歴史の息吹を感じ取るにはこれしかないと思つたのであります。はい。 

 

今日の寫眞・・入口敦志著『漢字・カタカナ・ひらがな 表記の思想』(平凡社) と、今日のモモタとココ。