六月八日(木)丙寅(舊五月十四日 曇り

 

今日の讀書・・一週間ぶりに、『日本紀略』 を開きました。横道にそれるといふか、寄り道ばかりしてゐるやうですが、本道を忘れたわけではありません。それにしても、間道の魅力にも抗しがたいものがあります。 

ところで、今日は、貞元元年(九七六年)正月から、天元三年(九八〇年)十二月までのまる五年間の記事を讀みました。 

この間目にとまつた人物や事件はあまり多くはありませんでしたが、氣になつた事項は、内裏が二回も燒亡してゐることと、大地震が發し、都が壊滅状態になつたこと。それにともなつて、「里内裏」がはじめて定められたことでせうか。 

「貞元元年七月廿六日辛卯。朝雪が降る、霜の如し。未申の時刻に雷雨。申の刻、天皇職曹司より太政大臣兼通の堀川邸に遷られる」(註)。

 

それと、貞元二年三月廿八日に、「東宮發讀書」が行はれ、その副講師に、紫式部の父、藤原爲時が命じられてゐること。

 

同年閏七月廿三日、伊勢以下十六社に、「止雨」を願ふ捧げ物の宣命の草稿を、源爲憲が書いてゐること。源爲憲は、冷泉天皇皇女、尊子内親王のために、『三寶繪』(『三寶繪詞』)を書いてゐることで知つてゐました。

 

それと、伊勢齋宮の規子内親王のことです。「貞元二年九月十六日癸卯。伊勢齋宮規子内親王、伊勢に向かふ。兄の天皇は承明門建禮門まで出て見送る。」 

ところが、もと伊勢齋宮だつた規子の母親の徽子(きし)「齋宮女御」が、娘とともに下向したのを知つて、次の日に、「早く留めしむべし」といふ宣旨を出してゐるんです。もちろん、無視して母と娘は伊勢へと向つて行きました。さすがに、留めることができなかつたやうです。 

このことは、並行して讀んでゐる槇野廣造さんの 『平安朝日記』 によつて知つたのですが、まるで物語のやうです。

 

さう、當時の政局にとつて忘れてはならないのが、藤原兼家の娘、詮子の入内です。 

「天元元年(九七八年)八月十七日己巳。大納言藤原兼家卿の息女詮子、初めて後宮に入り、梅壺にお住まひになる。」 

詮子(せんし)は、ご存じ、道長のお姉さんで、しかも、「天元三年六月一日癸申。寅の刻。女御藤原詮子、第一皇子(一條帝)を産む。」とあるやうに、一條天皇の母親になつた方ですから、この詮子さんなくしては道長の、「望月」の歌もなかつたであらうキーパーソンなのでありますね。はい。

 

以上讀んだところで、槇野廣造さんの 『平安朝日記(九七〇年代)』 が讀み終りました。 

 

*註・・里内裏(さとだいり) 大内裏の外(里)に設けられた仮の内裏。今内裏ともいう。多く摂政・関白などの私邸があてられた。976年(貞元1)内裏が焼失し、再建までの間、円融天皇が関白藤原兼通の堀河殿を居所としたことに始まるとされる。 

その後、放火などにより内裏がたびたび炎上するようになると、一条天皇の一条殿や、三条天皇の枇杷(びわ)殿などのように、ほぼ特定の邸宅が里内裏になった。寝殿、対屋(たいのや)、廊などを、内裏の殿舎になぞらえて使用し、修理や再建のときは、より内裏にふさわしいように改造されることもあった。  

現在の京都御所は土御門東洞院内裏の後身にあたり,元弘元(1331)年の光厳天皇即位時には,紫宸殿と清涼殿を兼用するような小規模な里内裏でした。その後,何度も焼失を繰り返し,そのたびに織田信長や豊臣秀吉など時の権力者によって再建が行われました。 

 天明8(1788)年に天明大火で焼失した際、幕府は老中松平定信(17581829)に命じて内裏造営にあたらせました。寛政2(1790)年,定信は裏松固禅(うらまつこぜん 17361804)の 『大内裏図考証』 に従い、承明門・紫宸殿・清涼殿などの一郭を平安時代の形式で復元再興しています。安政元(1854)年にも焼失しますが、翌年には寛政時と同規模で再建されました。これが現在の京都御所の建物です。 

 

今日の寫眞・・平安内裏圖。北西側に、詮子さんが入られた「梅壺」(「凝華舎」)があります。 

もう一枚は、わが「壽通り」の住人のお集まり。母の退院を祝つて來てくださつたので、お壽司をご馳走してさしあげました。