六月十七日(土)乙亥(舊五月廿三日・下弦 晴

 

今日の讀書・・今日は、學習院さくらアカデミー、《源氏物語をよむ》 第七回講義でした。『源氏物語』 「桐壺」の卷、「靑表紙本」で、二六頁から三一頁までを讀み進みました。 

亡き更衣の里を訪ねた靫負命婦との會話場面のつづきですが、今回のところは、ほとんどが更衣の母親のお言葉で、悲しみがつのる心境を述べるばかり、ついには、「畏れ多い帝のお情けを、かえってつい恨めしいことに存じ上げる」、とまで口にしてしまひます。だから、若君をつれてはやく參内するやうにと催促されても、はいさうしますとも言へないのでありますね。これは、むしろよく理解できます。

 

ところで、この部分にも、「引歌」がでてまゐりまして、先生の説明を興味深くお聞きすることができました。そのときに、あげてくださつた參考書に、『古今六帖』(註一) といふのがありました。ときどき書名を見た記憶はありましたが、その内容を聞いて、讀んでみたくなりました。 

が、それよりも驚いたのは、先生が書かれた論文が、丸谷才一さんの著書のなかでとりあげられてゐるといふお言葉でした。先生、さらりと言葉すくなにおつしやつたのを、丸谷才一さんと聞いたので、記憶にとどめて歸宅しました。

 

前回の時には、『源氏物語 語彙用例総索引』(勉誠出版)といふ書物を紹介してくださいましたが、調べたら、「源氏物語の全語彙(約38万語)について用例が検索できる索引」なんですね。ちよいと手が出せませんし、圖書館でも見ることができるのでせうか? それより、研究するわけではないので放念することにしました。 

 

今日もサンドウィッチでありまして、午前中は神保町の東京古書會館。講義後は、高田馬場驛で降りて、早稻田通りの古本屋を巡り歩きました。収穫はといへば、まづ、和本の 『俳諧七部集』(註二) でせうね。上下合本にしてありますが、奥書には、「天保十一庚子林鐘增刻成」とあります。一八四〇年の印刷なんでせうか。調べたら、『芭蕉七部集』 のことであることがわかりましたが、もちろんくづし字と俳句の勉強のために讀みたいと思ひます。

 

それと、これは大發見と言つていいのか、掘り出し物と言つていいのか、『平安京の邸第』 といふ、いはゆる「里内裏」に關する本です。あとがきによれば、「平安貴族がどのような邸宅にどのように居住していたかというような、素朴で具体的な関心によって本書は編纂されました」とあり、さらに、「今後の研究のための基礎資料を整備しておきたい」といふ實に誠實な心がけのもとになされた書でありまして、ぼくはかういふ書こそもつと讀まれるべきだと思ふのでありますが、古本屋の店頭で出會はなければ存在さへ知らないでゐた本ですね。 

 

それで、だいぶ體力と知力を驅使しましたので、歸路、押上驛で下車して、天龍の餃子に挑戰しました。特大の餃子八個、どうにか完食。ただし、ライスはほとんど殘してしまひました。それでも、滿足でした。三個殘してしまつたときは實に情けなく思ひましたからね。ぼくの健康のバロメーターと言つてもいい天龍の餃子です。 

 

註・・『古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)』 平安時代に編纂された私撰和歌集。全六帖(六冊)。和歌の類題別私撰集。略して『古今六帖』とも。編者・成立年代未詳。10世紀の終わり近く、円融、花山、一条天皇の頃の成立か。貞元元年(976)から永延元年(987=兼明親王の没年)まで、または永観元年(983=源順の没年)までの間が一応の目安とされる。 

『万葉集』 から 『古今集』 『後撰集』 のころまでの歌約4500首を収める。天象、地儀、人事、動植物の4項目を、さらに516題に細分し、それぞれの題にその例歌を分類配列している。後世の俳諧歳時記のように、分類された題のもとにその例歌を掲げているのであり、その構成法などから、古来、作歌のための手引書といわれてきた。もとより平安時代の和歌は、たとえば「蛍」といえば火、「吉野」といえば桜か雪などというように、歌のことばが一定の連想作用を促すことばとして発達していた。人々がこうした手引書をもとに、歌ことばを通して作歌法を学んだらしいことは想像にかたくない。 

 

*註二・・『俳諧七部集(はいかいしちぶしゅう)』 江戸中期の俳人佐久間柳居(りゅうきょ)16951748)が蕉風俳諧の発展過程を明らかにするため、芭蕉関係の撰集より『冬の日』(一冊、1684)、『春の日』(一冊、1686)、『曠野)』(三冊、1689)、『ひさご』(一冊、1690)、『猿蓑)』(二冊、1691)、『炭俵)』(二冊、1694)、『続猿蓑』(二冊、1698)の七部12冊を撰定し、刊行したもの。享保(171636)末年にはすでに刊行されていたらしいが、本書が広く流布するのは1774年(安永3)子周(ししゅう)編の小本(こほん)二冊本の『俳諧七部集』の刊行からである。 

本書の流布により各地に芭蕉復興運動がおこり、いわゆる中興俳諧の興隆をみるに至ったのは注目すべきである。なお七部の撰定に関し、貞門・談林時代の作品を加えるべきだとか、不適当なものを他と差し替えるべきだとか等の異論も出、また変風の明らかな『冬の日』『猿蓑』『炭俵』の三部で十分とする意見も出され、芭蕉の研究が活発化した。本書は近世後期には、半紙本、小本、中本、横本などさまざまな書型で刊行され、広く一般に流行した。 中村俊定校注 『芭蕉七部集』(岩波文庫) 

 

今日の寫眞・・學習院大學構内の、「血洗いの池」。そばまで下りてみました。それと、これも構内の「富士見茶屋跡」に建つ芭蕉の句碑です。「目にかかる 時や殊更 五月富士」とあります。 

三枚目は、天龍の餃子! さいごは、『俳諧七部集』 とその翻刻本、『芭蕉七部集』(岩波文庫) です。