六月廿四日(土)壬午(舊閏五月朔日・朔 晴

 

今日もサンドイッチで行つてまゐりました。いいえ、古本市のサンドイッチではなくて、我が《東京散歩》 と古本市にはさまれたサンドイッチで、もちろん、はさまれた具に相當する「源氏物語をよむ」の講座をしつかりと受けてまゐりました。 

まづは、ガイドブック、『東京山手・下町散歩』(昭文社) による 《東京散歩 じゆんの一歩一》。順番通り、〈コース番號7〉です。 

コース名と内容にはかうあります。「旧街道を歩く 中山道・とげぬき地藏 板橋駅~巣鴨駅 板橋~巣鴨の中山道旧道を忠実に歩く。商店街の中を歩き続けるが、『おばあちゃんの原宿』と呼ばれている地藏通りの商店街は平日でも賑やか。縁日(4の日)はとくに賑わう。〔所要〕1時間」。 

講義を受ける日なのに、あへて出かける氣になつたのは、〔所要〕1時間といふ短さと、すでに歩いたことのある道だつたからです。休み休み歩くとしても一時間半もあれば十分でせうし、板橋驛から目白驛まで、乘り換へがあるにしてもたつた二驛だつたからです。 

 

ガイドブックでは「板橋駅~巣鴨駅」となつてゐますが、どちらがスタートでもゴールでもいいやうになつてゐますので、その點は臨機應變で行くことにしてゐます。 

巣鴨驛に着いたのはちやうど一〇時でした。電車を降りるやいなや、ふだんとはちがふ熱氣を感じました。さう、今日は廿四日で、「縁日(四の日)」だつたんです。掻き分けかき分けといふほどではありませんが、ぢいさんばあさんをよけながら歩かなくてはなりません。まあ、ぼくも人後に落ちないぢいさんではありますが、お參りが目的ではありませんので、前進、と思ひきや、そばから焼きそばの香ばしいといふかソースの焦げたやうな匂ひが鼻をかすめていきます。ぼくは、子どものときから、縁日とか屋臺がならぶ雑踏は大好きなので、かういふ匂ひには弱いのであります。もつともまだ空腹ではありませんしね、先を急ぎました。

 

ところで、巣鴨地藏通りは、かつての中仙道そのものなのですが、「信仰の街」であるなんて、キャッチコピーを見た記憶があります。たしかに、入口には、境内に芭蕉の句碑の建つ、「江戸六地蔵尊 眞性寺」がありますし、中ほどには、通りの名のごとく、「とげぬき地蔵尊 高岩寺」があり、さらに出口には、中仙道を行きかふ旅人の休憩所があつた、「巣鴨庚申塚」がひかへてをります。まさに「信仰の街」なのでありますね。 

《中仙道を歩く》の第一回で歩いた懐かしい道筋でありますけれど、さういへば、みなさん、とくにご婦人方が、高岩寺境内の奥にある、「洗い観音」をごしごししてゐたのを思ひ出します。煙で癒すといひ、水で癒すといひ、人間みな癒されないとやつていけないものをかかへてゐるのだなあと、人ごとならず思つたことでした。 

 

都電、庚申塚停留場を過ぎると、あとは平凡な町竝みがつづきましたが、さう、「亀の子束子」の西尾商店の古風な建物は健在でしたね。それと、思ひ出したのは、さざえ堂です。休憩した公園のやうな場所に、會津で見たことのあるさざえ堂と同じやうな、螺旋形の、しかも金ピカな建物には驚きました。 

はじめ、若い男女がぼつぼつと出たり入つたりしてゐたので、これは新興宗敎かなにかではないかと、疑ひ深いぼくは目を細めてながめてゐたのですが、出發まぎはに近づいてたしかめてみましたら、奥まつたところに、さざえ堂が建つてゐたのであります。そして、そばの立て看板には、「すがも鴨台観音堂(鴨台さざえ堂) 大正大学」 とありました。へ~え、こんなところにさざえ堂が、四年前の 《中仙道を歩く》 の時にはなかつたはづだと思ひながら、しばらく見とれてしまひました(註一)。 

ゴールは、埼京線板橋驛。ついでに近藤勇墓所も確認しておきました。 

到着は、一一時五分。正味、三八〇〇歩しかありませんでした。 

 

目白驛には一一時二五分に着き、お晝のラーメンを食べ、講義を受けるまでのあひだ、控室でのんびり休むこともできました。

 

さて、學習院さくらアカデミー、《源氏物語をよむ》 も第八回を迎へ、殘すは今日を含めて三回になりまして、『源氏物語』 「桐壺」の卷、「靑表紙本」で、三一頁から三六頁までを讀み進みました。 

亡き更衣の里を訪ねた靫負命婦と、母北の方との長い會話が終り、命婦がやつと帝のもとへ報告にあがつたところまででした。

 

ところで、先日來、他の受講者の方々が補講を求めてをられたので、先生が今日その原案を示してくださいました。補講といふか、特別講座の題は、「源氏物語の引歌について学ぼう!!」 といふことで、テキストが、伊東先生が書かれた論文、例の、「源氏物語の引歌の種々相」 と 「源氏物語の『鳥』考」 です。これにはぼくも俄然參加したく思ひ、みなさんとともに八月のその豫定日を決めることができました。 

 

それとともに、歸り際に、各種案内ビラが目についたのでその一枚を手に取つてみたら、これにも出たいと思ひました。さくらアカデミーの夏期講座、《『今鏡』を読む 王朝貴族の実相を考える》 といふ内容なのであります。「内容的には 『大鏡』 の延長線上に位置し」てゐる 『今鏡』 ですが、ぼくのなかでは、まだ學びの視野に入つてきてはゐないとはいへ、こんな好機はありません。八月中旬の三日間、集中講義といつてもいいでせう。まだその準備ができる時間的餘裕もありますし、歸路、事務所によつて早速受講を申し込みました。 

 

さてさて、そんなハプニングのやうな計畫に出會つたおかげで、五反田の古書會館を訪ねたら、和本の 『今鏡』 がいきなり目に飛び込んできたのであります。上下で三〇〇圓。ぼくは目を疑ひました。が、あとで調べたら、中卷が缺落してゐたんですね。でも、いいでせう。すぐ入手いたしました。ただ、くづし字ではなく、翻刻された印刷本ですが、やる氣を喚起してくれただけでも掘り出し物と言ひたいです(註二) 

 

註一・・栄螺堂(さざえどう、さざいどう) 江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は螺旋構造の回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。 

会津さざえ堂 二重らせん構造の斜路をもつ特異な建物として知られる。福島県会津若松市の白虎隊の墓所のある飯盛山の中腹に建つ。通称は「会津さざえ堂」もしくは単に「さざえ堂」で、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)という。 

ちなみに、大正大學の「鴨台さざえ堂」は、二〇一三年(平成二十五年)に建てられたやうです。 

 

*註二・・『今鏡(いまかがみ)』 歴史物語。10巻。成立は平安時代末期であり、『今鏡』 序文によれば、高倉天皇の嘉応2年(1170年)とされるが、それ以降とする説もある。作者は藤原為経(寂超)とするのがほぼ定説になっている。ほかに、中山忠親、源通親説もある。『今鏡』 は 『続世継(しょくよつぎ)』 とも 『小鏡(こかがみ)』 とも呼ばれる。『続世継』 は、『大鏡』 の続きであるという意味で、『小鏡』 とは、現在の歴史という意味である。『つくも髪の物語』 ともいう。 

いわゆる「四鏡」の成立順では2番目に位置する作品である。内容的には 『大鏡』 の延長線上に位置し、3番目に古い時代を扱う。なお、描く年代が4番目の 『増鏡』 との間には13年間の空白があり、藤原隆信(寂超在俗の子)の著である歴史物語 『弥世継(いやよつぎ)』(現存しない) がその時代を扱っていたためとされる。

 

今日の寫眞・・地藏通り商店街。都電、庚申塚停留所。大正大學、さざえ堂。亀の子束子西尾商店。 

それと、學習院さくらアカデミーの夏期講座、《『今鏡』を読む 王朝貴族の実相を考える》 の案内。 

さらに、『校定今鏡 一名 續世繼』 関根正直 校、六合館書店、明治29年、上中下三冊うちの上下。それで、三〇〇圓!