六月廿七日(火)乙酉(舊閏五月四日 終日曇天

 

今日は、慈惠大病院への通院日。みかちやん先生の診察を受けてまゐりました。血液檢査と心電圖檢査の結果は良好で、心臟の動きがここのところばかにいいやうです。まあ、藥のおかげではあるわけですが、副作用の恐怖を忘れてゐるわけではありません。

 

が、今日も梅雨のわりには雨のおそれはなささうで、多少調子に乘りかけてきた《東京散歩》を行つてきました。スタートが、都營地下鐵三田線の西巣鴨驛といふこともありました。御成門驛からは乘り換へなしの一直線です。でも、ついでなので、神保町驛で降り、西秋書店と日本書房に立ち寄り、水道橋驛から再び乘車して西巣鴨驛に向かひました。 

この驛に降りたのは二目ですが、出口が違つてゐたためにはじめてのやうな氣がしました。マクドナルドもあつたかなと思ひつつ、お晝がまだだつたので、いつものビックマックとコーラをいただいて腹ごしらへをいたしました。窓から見たら、白山通りを挾んだ東側に、今回のコースのスタートとなる路地が見わたせました。  

實は、今日歩くところは、いくつものお寺をめぐるやうなので、それで以前求めた、『江戸東京 名士の墓碑めぐり』(人文社) を出してきましたら、どんぴしやり。いつものガイドブックにはのつてゐない有名人、といふか歴史に名を殘した方々のお墓が集中してゐるのを知りました。 

 

さて、ガイドブック、『東京山手・下町散歩』(昭文社) による 《東京散歩 じゆんの一歩一》。順番通り、〈コース番號8〉です。 

コース名と内容にはかうあります。「江戸名勝探勝 染井・六義園 西巣鴨駅~本駒込駅 ソメイヨシノ発祥の地である染井霊園付近から柳沢吉保の開いた六義園周辺までの中山道沿いを歩く。桜の花期だけでなく、周辺には著名人の墓が多いので、故人をしのびながら歩きたい。〔所要〕1・5時間」。 

 

いやあ、「故人をしのびながら」なんて書いてありますが、偲びすぎてしまつて一時間半のコースが三時間かかつてしまひました。 

とくに染井墓地までの前半は、路地沿ひにお寺が連なり、有名人も盛りだくさん。ただ、みな、江戸の中心部から移轉してきたお寺ばかりのやうであります。場所は地圖でたしかめていただくことにして、訪ねた順番に記していきませう。 

 

まづは、善養寺。天長年間(八二七~八三四)、慈覺大師圓仁が上野山内に開創したと傳へられるお寺で、ここには、「江戸時代中期の絵師・陶工」の尾形乾山の墓がありました。

 

二つめは、妙行寺。都電荒川線の踏切の手前右側に大きな門。本堂の裏手に回ると、林立する墓地の中ほどに、「東海道四谷怪談」で知られるお岩さんの墓と、隣接して、淺野長矩の正室瑤泉院の供養塔、それに明治時代の常磐津の名人の林中(りんちゅう)の墓がありました。

 

ここで、我がガイドブックのコースからははづれ、『墓碑めぐり』 の地圖に從つて、線路を渡り、右折してから再び線路を渡つた、妙行寺とは背中合はせにあたる盛雲寺に、新門辰五郎のお墓を訪ねました。大きな自然石の二段構へであります。江戸末期の町火消し、鳶頭、侠客ですね(註)。ぼくの好きな人物のひとりです。はい。(つづく) 

 

註・・新門辰五郎 町火消であり侠客、香具師でもある。浅草十番組「を組」の頭。勝海舟とも交流を持ち、実娘のお芳は徳川慶喜の妾。 新門辰五郎は、町の火消にとどまらない大きな影響力を持ち、資金力もずば抜けていた。鳥羽伏見の戦いにおいて、徳川慶喜が身一つで大阪城を脱出後、城に残されたままになった徳川家康以来の金扇の大馬印を取り戻したのは、幕臣ではなく新門辰五郎である。辰五郎は、その後上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護にも当たるなど活躍。 

 

今日の讀書・・今日は 『劍鬼』 につづいて、柴田錬三郎の 『無念半平太』(新潮文庫) を持つて出ました。持ち運びには文庫本が一番。 

 

今日の寫眞・・路地に建つ古い民家。善養寺、尾形乾山の墓。妙行寺の門から見た、踏切通過中の都電。お岩さんのお墓。最後は、新門辰五郎の墓と、画像。