七月五日(水)癸巳(舊閏五月十二日 曇りのち晴

 

今日の讀書・・『日本紀略』 一條天皇の時代をひきつづき。正暦元年(九九〇年)正月から、正暦五年(九九四年)十二月までを讀みました。 

年月順に氣がついたことをあげてゆくと・・・

 

正暦元年(九九〇年)正月廿五日、藤原定子入内。この方は、後年、從姉妹の彰子さんと張り合ふ方ですが、彰子さんが紫式部を家庭教師にしたのに對して、『枕草子』を書いた淸少納言をそばに置いて、兩者だいぶはりあつてゐたやうです。

 

同年七月一日、藤原兼家薨ず。六十二歳。道長の父で、『蜻蛉日記』の作者を妻としてゐました。まあ、男としてね、やりてだつたんでせうけれども、特に感想はないです。

 

同年十二月廿八日、平兼盛卒。お偉いさんは、死ぬと、「崩御」とか、「崩ず」、「薨ず」とか、お坊さんですと「入滅」なんて言ひますが、下級貴族は「卒」です。身分によつて死んだあとまで差別がつきまとふのでありますね。 

ところで、下級貴族とは言へ、名を遺せただけでも幸ひだつたかも知れません。もちろん、平兼盛さんは知る人ぞ知る、三十六歌仙の一人。

 

  「かそふれは わかみにつもる としつきを おくりむかふと なにいそくらん」

 

この歌なんか、いや、この歌については、和歌の苦手なぼくにも身にしみてわかりますね。もつと有名なのが、「百人一首」に選ばれた歌でせう。

 

「しのふれと いろにいてにけり わかこひは ものやおもふと ひとのとふまて」

 

ただ、この平兼盛さん、工藤重矩著『平安朝律令社会の文学』(ぺりかん社) 所収の、「平兼盛の出自─王氏・平氏の説をめぐって─」 によりますと、出自がはつきりしてゐないんですね。こんな機會がなければ調べることはなかつたでせうが。

 

*註・・平兼盛 平安時代の官人、歌人。三十六歌仙のひとり。光孝天皇曾孫の篤行の子。赤染衛門(あかぞめえもん)の父とも。天暦4(950)年臣籍に下り、平姓となった。官位には恵まれず、従五位上駿河守が最高だが、歌人としては、数々の歌合や屏風歌の作者として活躍した。とりわけ、天徳4(960)年の内裏歌合で詠んだ「しのぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで」は、壬生忠見の歌と競って勝ち、百人一首にも採られた。また『大和物語』にもたびたび登場しているが、生存中から逸話の主人公とされたことは、彼の人気の高さを示していよう。家集に『兼盛集』がある。 

 

それと、この時代、とくに正暦五年(九九四年)は、疫病やら災害やら犯罪が横行して都は大變だつたやうです。疫病についてだけ寫します。

 

四月十日辛卯 南殿、建禮門、朱雀門大祓、疾疫之難を消す爲也 

同廿七日戊申 伊勢以下諸社に幣帛を捧げる、疾疫を消して救ふ爲也 

同廿八日已酉 御讀經始、疾疫に依る也 

五月三日甲寅 山陵使を遣し奉る、疾病を救ふ爲也 

同十一日壬戌 五畿七道諸國に仁王會を修すべきの官符を給ふ。疾病を攘ふ爲也 

同廿六日丁丑 宣旨に依り、諸司諸社に石塔を起させる、疾疫を救ふに依る也 

七月廿一日辛未 御讀經始、疾疫を祈るによる也 

八月廿一日庚子 諸社に幣帛を捧げる、天變・恠異・霖雨・疾病事等に依る也

 

そして、一年のしめくくりとして、十二月の最後に・・・

 

今年、正月より十二月に至るまで、天下疫癘最盛、鎮西より起こりて、七道に遍く滿つ。

 

とありました。みんなみんなあつちこつちの神賴みなのでありますね。 

そこで、最後の最後に、救はれたいとの庶民のあがきといふか、苦し紛れの行動を取り上げておきませう。

 

同年五月十六日丁卯 左京三條南油小路西に小井有り、狂夫云く 「此水を飮む者は疾病を免れるべし」てへり。仍りて都人士女擧げて汲みに來る。 

 

今日の寫眞・・平兼盛像と可愛いココ。拾はれてまる一年。まだまだ幼い感じがいたします。