七月廿七日(木)乙卯(舊六月五日 曇天、朝のうち雨

 

今朝、思ひ切つて、朝食を食べずに、近所の「ハートクリニック」に、妻と二人で行つてきました。葛飾區から屆いた、六十五歳以上を對象とした《葛飾区特定健康診査のご案内》に從つて、健康診斷を受けてみようと思つたからです。まあ、毎月病院には行つてゐますが、いはゆる生活習慣病についてすべてを診ていただいてゐるわけではないので、この機會に受けることにしたのです。 

はじめに採尿、つづいて心電圖にレントゲン。體重と身長を測つて、最後は血液採取でした。

 

「ハートクリニック」は、數年前までは、田中整形外科と言ふ病院で、ぼくが子どもの頃からあつたのですが、かかつたことはなく、はじめて中に入りました。個人病院にしては廣くて明るい醫院でした。それに、何より、受付の女性と看護婦さんが親切で優しいのが印象的でした。と言つても、近々移轉するさうですし、これからもかかることはないでせうが、これが最初で最後でした。それにしても、マスクをした看護婦さんがとてもすてきでした。 

 

今日の讀書・・今日もがんばりまして、『源氏物語〈紅葉賀』 を繼讀。 

靑表紙本」で讀んでゐますが、むつかしい表現に出會ひました。「いとめてたうあい行つき給へり」といふ箇所です。意味は、「たいへんすばらしく魅力的でゐらつしやる」といつたところですが、問題は、この中の「あい行」です。これは、「あいぎやう→愛敬」であるところを、「ぎやう」の音がおなじなので、「愛行」と記したと思はれるのです。が、かなばかりの文脈のなかに、どうして「あいぎやう」とも、「愛敬」ともせず、中途半端な「あい行」にしたのでせうか。

 

そもそも、この文は、紫上である姫君の幼い姿を見てゐる源氏の君の姿がさうなのか、それとも、源氏の君がながめてゐるその少女なる姫君がさうなのか、素人目では、ちよいと判斷に苦しむところです。 

ちなみに、『日本古典文學全集』(小學館) も 『新潮日本古典集成』(新潮社) も二册とも、「愛敬」と翻刻してゐます。

 

ところで、「愛行」とは、夫婦の和合のことをいふさうですから(『広辞苑』、「愛敬」の項参照)、その方面のすばらしさをも含意させてゐるのでせうか。そしてもし、少女なる姫君をさしてゐるとするならば、この時はまだ十歳くらゐですからね、ちよいと早いといふか、おませなんではないでせうか。これは專門家に聞いてみたいところですね。

 

それと、安西篤子著『悲愁中宮』(集英社文庫) を讀み終へました。でも、期待したほどの内容ではありませんでした。中宮定子には、清少納言がそばに仕へてゐたはづなんですが、ほとんど出番がありませんでした。定子さんの悲劇に重點がおかれてゐたからでせうが、『源氏物語』 の次は、『枕草子』 を讀むつもりですので、ちよいと肩透かしを食らはされたやうです。 

 

今日の寫眞・・讀書中、仲よくなめあつてゐるモモタとココ。まことに邪魔なんですが・・・。 

それと、“カツネコ”の夜の捕獲作戰で捕らへたノラ六頭。明日の不妊手術のために書庫で待機してもらつてゐます。