八月(葉月)一日(火)庚申(舊六月十日 曇天のち雨

 

昨日は、靑表紙本で 『源氏物語』 讀破をめざしてゐる読書計畫の第三冊、〈紅葉賀〉を讀み終はることができました。次第に霧が晴ていくやうに讀み進んでいけるところがなんとも言へません。これがくづし字リテラシー向上の醍醐味なのでありませう。

 

ついで、今日から新たにはじまる、學習院さくらアカデミーの、《源氏物語の引歌について学ぼう!!》 の豫習のために、そのテキスト、「源氏物語の引歌の種々相」を讀みはじめました。で、講義の始まるまでに、どうにか讀むことができました。とても説得力があつて、丸谷才一さんならずとも賞賛にあたひする内容でした。ただ、たくさんの「引歌(ひきうた)」が登場するので、和歌の苦手なぼくには、じつくり味はふにはほど遠いと言はざるを得ませんでした。 

 

さて、すでに通ひ慣れた目白驛、そして學習院大學。まづはお晝を食べてからと思ひきや、なんと食堂は夏期休暇! おいおいと言ひたくなりましたが、ぐつと我慢。二階のコンビニでおにぎりを買つて、それですませました。 

敎室は、《源氏物語をよむ》 と同じ、南1號館103敎室。受講者は七名。同じ席で、同じやうに先生の講義をお聞きしました。と言へるほどよく聞こえないのが惱みのたね。最近眞劍に補聽器が欲しくなります。

 

今日は、「源氏物語の引歌の種々相」 の半分ほど讀みました。説明されて理解できたこととともに、より謎が深まつたところも出てきて、まあ、專門家ではないからいいものの、ほんとに源氏は難しい。 

例へば、源氏は十八、九歳、相手の少女(紫の上))は十一歳。その二人が言葉のはしばしに古歌を引用して思ひのたけを打ち明けるのです。そのためにはどれほどの教養が必要なのか、古歌と呼ばれる、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集(以上、「三代集」)、古今和歌六帖、和漢朗詠集等の歌や詩を暗記してゐなくてはなりません。それらをすべてとは言はないまでも、身につけることが貴族生活には必須なんですね。詠めないし、覺えられないし、聞いても分からないやうぢや、たうてい平安貴族にはなれさうもありません。まづまづ、氣が遠くなつてしまひます。

 

ところで、「源氏物語の引歌の種々相」 は、四回あるうちのはじめの二回で讀み、あとの二回は、「源氏物語の 『鳥』 考」 といふ論文を讀む豫定です。そのコピーを今日いただきましたが、これまた重厚のやうでありますね。ぼくの頭と心でついていけるかしら? 

 

今日の寫眞・・我が家の“下駄輕”は、ノラネコ運搬で働き者! 

學習院大學西門とみごとな百日紅(さるすべり)。ちなみに、伊東先生、學生時代から今日までを通じて、この百日紅の花を見たのはこの夏がはじめてださうです。なぜでせう。それは、開花時期である夏休みには學校はお休みだつたからださうであります。それにしても、實にご立派な樹です。 

今日の講義のテキスト、「源氏物語の引歌の種々相」(『源氏物語の探究 第十二輯』風間書房、一九八七年、所収) のコピーと、この論文をべた褒めしてゐる、丸谷才一さんの隨筆が載つてゐる 『袖のボタン』 (六月十八日の日記參照)。 

四枚目は、歸路、大塚驛のブックオフで買ひ求めた三冊。