八月八日(火)丁卯(舊六月十七日・望 曇りのち晴

 

今日の讀書・・昨夜は、氣分をかへて、丸谷才一さんの對談集を讀みました。『文学ときどき酒』(中公文庫) です。と言つても、興味深さうなところだけでしたけれども、けつこう面白くて、しかも參考になりました。 

石川淳との「本と現実」、圓地文子との「『源氏物語』を読む」、それと、大岡信との「花・ほととぎす・月・紅葉・雪」です。 

とくに、石川淳さんとの對談では、御靈信仰のこと、圓地文子さんとでは、ちよいと長文ですが、「『源氏物語』は、当時の貴族が 『古今集』『後撰集』『拾遺集』 この三つの三代集のほとんどを暗記して、自由自在に応用することができて、しかもそれが風俗、立居振舞い、すべてを規定していた。そういう生活があって、そこからこの 『源氏物語』 がでてきたという感じがするんです」とおつしやつてをりますところ、そして、大岡信さんのところでは、日本の文学の伝統における 「動植物のランキング」なんてところが樂しく讀めましたです。はい。 

 

また、今日は、「靑表紙本」で讀む『源氏物語』 のつづき、〈葵〉 を讀みつづけました。 

この卷は、大野晋さんと丸谷才一さんの對談、『光る源氏の物語』(中公文庫) で、「いままでのa系(紫の上系)の 〈若紫〉 とか 〈紅葉賀〉 とかいう卷がどこか描写力が足りなかったり、ぎくしゃくした感じがあったのに対して、この 〈葵〉 の卷までくると、作者はさすがに書き慣れてきたのか、筆が伸びてきて、話の組立方が非常に上手になる。流れがスムーズで、また女の人たちのいろいろな生き方が源氏と絡んでかなり具体的に、それこそ物語的に展開してくる。そういうところへ入ってきたという感じがします。」 とおつしやつてゐる卷なのですね。 

ただ、それだけに文章のあやとでも言ふのでせうか、言ひ回しが複雑で理解しづらくなつてきたこともたしかです。それに、寫本の筆が、いままでのとくらべるとだいぶ杜撰といふのか粗略で、讀みづらい。さらに、變體假名も、「志(し)」、「以(い)」、「盤(は)」であつたものが、「新」、「伊」、「半」が使はれるやうになり、なれるまでに時間がかかりさうです。 

 

さうだ、我慢しきれなくなつて、先日大塚のブックオフで買つた、池波正太郎の 『西鄕隆盛』(角川文庫) を讀み出してしまひました。概略のやうな教科書風の内容ですが、今のところ滿足したいと思ひます。 

それと、思つたことですが、來年のNHKの大河ドラマが 「西鄕隆盛」 のやうですが、描き方によつては、現政權にある、長州の裔であることを誇る 「アベ政治」 への痛烈な批判になるはづです。で、隆盛さんが語つた言葉の中からいくつか書き出してみませう。念のため、現代語譯にしました。 

 

一、政府にあって国のまつりことをするということは、天地自然の道を行なうことであるから、たとえわずかであっても私心をさしはさんではならない。 

だからどんなことがあっても心を公平に堅く持ち、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実にたえることのできる人に政権をとらせることこそ天意すなわち神の心にかなうものである。だからほんとうに賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職をゆずるくらいでなくてはいけない。 

従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職を与えてほめるのはよくないことの第一である。

 

一、どんな大きい事でもまたどんな小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、決していつわりのはかりごとを用いてはならない。

 

一、節義(かたい道義、みさお)廉恥(潔白で恥を知ること)の心を失うようなことがあれば国家を維持することは決してできない。 

それは西洋各国であってもみな同じである。上に立つ者が下に対して自分の利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれにならうようになって人は皆財欲に奔走し、卑しくけちな心が日に日に増長し、節義廉恥のみさおを失うようになり、親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するに至るのである。

 

一、昔から主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行うような世にうまく治まった時代はない。 

自分は完全な人間ではないと考えるところからはじめて下々の言うことも聞き入れるものである。自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を言いたてると、すぐ怒るから、賢人や君子というようなりっぱな人はおごりたかぶっている者に対しては決してこれを補佐しないのである。

 

一、命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬというような人は処理に困るものである。このような手に負えない大馬鹿者でなければ困難をいっしょにわかちあい、国家の大きな仕事を大成することはできない

 

一、人をごまかして、かげでこそこそ事を企てる者は、たとえその事ができあがろうとも、物事をよく見抜くことのできる人がこれを見れば、みにくいことこの上もない。 

人に対しては常に公平で真心をもって接するのがよい。公平でなければすぐれた人の心をつかむことはできないものだ。 

 

まあ、このくらゐで十分でせう。以上は、『西鄕南州翁遺訓』 の拔粹です。 

 

今日の寫眞・・池波正太郎著『西鄕隆盛』(角川文庫) と 『西鄕南州遺訓』。それと、今日のモモタとココ。相手するのが疲れます。