九月二日(土)壬辰(舊七月十二日 雨のち晴

 

今日は、出歩いてきました。一日歩きづめで、一二八〇〇歩でした。 

まづ、土曜日でしたから、古書展は、神田とともに高圓寺の古書會館でも行はれてゐるので、はしごをして見歩いてきました。 

まあ、掘り出しものと言へるかどうかわかりませんが、高圓寺のはうで、眞つ黒くて大きくて重い本が竝んでをりまして、何が書いてあるのかよくわからない背表紙を斜めにすかして見たら、『新聞集成明治編年史』 と書かれてありました。十五册ありました。が、恐る恐る開いてみると、推薦といふか、「本編年史に就いて」として、あの宮武外骨さんが書いてゐるんです。これはただものではないと思ひ、よく見てから、第三卷まで買ふことにしました。西鄕さんの戰爭が終つたあたりまでです。當時のことが、直接に目の當たりにしてわかりさうです。まあ、一册三〇〇圓ですから、あるだけ買つてしまつてもよかつたのですけどね(註)。 

それと、山中裕編『平安時代の歴史と文学 文学編』(吉川弘文館)。これがたつた一〇〇圓。『源氏物語』 についての論考がほとんどですからすぐに役に立ちさうです。

 

さて、午後からは、《東京散歩 じゆんの一歩一》 のつづき、その第十一回目にのぞみました。 

まづは、いつものやうに、ガイドブックによるコース名と内容です。「コース11 下町商店街周遊 尾久・熊の前 田端驛~田端驛 田端驛と都電荒川線の間にある昔ながらの商店街をつなぐ。小台本銀座、尾久銀座、熊野前商店街、熊野渡し商店街と風情ある商店街が途切れることなく続く。〔所要〕2・5時間」。

 

それで、田端驛に降り立つや、最初に、田端文士村記念館を訪ねました。コース10(八月二十一日)のときに休館日だつたからです。薄暗いホールに入り、掲示されたもの、展示されてゐるもの、あれこれ見せていただきました。また讀んでみようかなと、ちよいとは思ひました。 

再び驛前にもどり、そこで時間と萬歩計を確認し、ガイドブックにしたがつて、今回も忠實に歩きました。右回りでも左回りでもよくて、ぼくはぼく自身の感じから左回りにし、三時四〇分に歩きだしました。

 

山手線、京浜東北線、それと新幹線車輌基地への引き込み線の上に架かる新田端大橋を渡り、JR東日本支社の建物に沿つて回り込み、あとはコースの道をたどりました。 

明治通りを渡り、最初の小台本銀座に入る角に、「右西新井大師道 左王子稻荷道」と彫られた石の「みちしるべ」が建つてゐました。その、お大師さん方面に道をとり、まるで路地ですが、銀座なんてどこにでもある名がつけられてゐます。ほとんどの店がシャッターでふさがれ、その寂れたさまはまた懐かしい感じで、ついつい宮川商店のウイング揚といふ鶏肉を求めしまひました。二個で九十五圓。歩きながら食べても、誰も見てやしません。「コラーゲンがいっぱい!」と謳つてゐたこともあつてか、とても美味しかつたです。

 

その銀座道がつきたあたりを、さらに路地を分け入ると、都電の宮ノ前驛に出ました。ここは車窓をとおしてよく見かけるところです。向かいには八幡神社が鎭座。ぼくは、その脇をかすめながら、さらに路地を進んで、この先は隅田川といふあたりから、いきなり右に曲がつて南下。そこから熊野渡し商店街がはじまり、再び都電の熊野前驛に出ましたが、さらに南下をつづけ、熊野前商店街、そして、尾久銀座を經てまた田端驛に歸つてまゐりました。

 

さう、熊野前を通りながら、熊野神社(跡)を見逃しました。熊野前商店街では、日本で初めての飛行機事故を起こして死んだ 「杉野中尉殉難遺跡」を見、その先の、レストランの「こひきや」さんで、五十分ばかり休憩したのでした。とても雰圍氣の良いお店で、近くにあつたら毎日通ひたいと思ふほど氣にいりました。ここで、池波さんの 『剣客群像』 を讀み終はらせたのでした。この通りは夕方を迎へたこともあつて、にぎやかで活氣がありました。が、またさびしい路地を歩いて田端驛到着となつたのでした。時間は六時二〇分。正味六五八〇歩でした。ちなみに、家を出て歸宅するまでは、一二八〇〇歩でした。 

 

註一・・『新聞集成明治編年史』 中山泰昌編著 ; 新聞集成明治編年史編纂會編纂 財政経済学会刊行 昭和九年) 以下、「編纂会」による、「刊行主旨」の一部。

「本会は如上の諸事情に鑑み、前記 『明治新聞雑誌文庫』 の豊富なる資料(註二)の全面的渉猟によりて、に新聞記事による一大編年史―明治編年史―の編纂を企画し、以て社会の切望に応ぜんとするのである。すなはち我が国に新聞の創始せられて以来の、あらゆる新聞を捃摭纂録して一大縮図を作成し、公私一般の書庫に、個々の一大新聞図書館を建設して、その探索を極めて容易にし、以て多方面の参考資料たらしめんとするものである。これ正に活ける社会史たり、世相史たり、風俗史たり、国民史たり、時代を其の儘に眼前に開展するフィルムたり、約言して、揣摩臆測及び偏見的推理判断に尺寸の余地を与へず、一糸纏ふなき赤裸々の歴史其のものである。」 

 

註二・・宮武外骨さんは、その資料について、「明治時代の新聞紙が約八百七十種の三十七万枚、雑誌が約五千六百種の十二万五千部」に及ぶと記してゐます。

 

今日の寫眞・・『新聞集成明治編年史』。以下、田端文士村記念館ロビーと、今日の 《東京散歩》 より (つづく)。