九月十三日(水)癸卯(舊七月廿三日・下弦 晴

 

今日の讀書・・立石圖書館に通ひはじめて、まだ數回ですが、片道およそ四千歩であることがわかつてきました。 

今朝は、その途中、寶町一丁目の公園で一〇〇圓の罐コーヒーを飲んで休憩し、平和橋通りに出てから、セブンイレブンでトイレを借り、曳舟川の暗渠の上で爪を切り、イトーヨーカ堂でまたトイレを借りて小休憩。 

イトーヨーカ堂は、開店早々だといふのに、すでにたくさんの人が出てゐて、入口のホールでは、「理由あり商品大放出!」 のコーナーが開かれてゐました。トイレの出入りに近かつたので、通り過ごしに見てみると、お皿にフライパン、オープンからフトンに掃除機にオーディオセット、プリンターまでありました。でも、なぜ安いんだらう?

 

ところで、その先に、數か月お世話になつたメガロス葛飾があつて、そこで平和橋通りを渡るんですが、メガロス、開店時間が十時なんですね、すごい人が行列をつくつてゐました。さう言へば、妻が、もつと早く開ければいいのにね、なんて言つてゐました、が、その妻はノラネコの世話と家事で今やお休み中です。

 

さて、圖書館はいつも午前中は數人の人しか見られず、靜かなものです。今日も、はじめに 『方丈記一節』 を、稱へるやうに靜かに讀み、午前中は、『好色一代男』、その「七歳」の前半を、『源氏物語』 と同じやうにしつかりと讀みました。難しさがぜんぜん違ひます。

 

お晝は、立石驛まで、あちこちお店をさがしながら歩きました。さうしたら、奥戸街道沿ひに、お蕎麥屋さんが多いのに驚きました。でも、野菜を多く食べるやうにしてゐるので、今日も中華屋で五目あんかけ焼きそばをいただきました。

 

ついでに、驛前通りの小さな古本屋に入つたら、一册、面白さうな、といふか、えツ! と思ふ文庫本が見つかりました。江戸城にあつた 「紅葉山文庫」(註一) をめぐる時代小説です。氣にはなつてゐた「文庫」の一つですが、それよりも、「書物奉行」(註二)がおかれてゐたといふことをはじめて知りました。早速讀んでみようと思ひます。 

それは、福原俊彦著 『書物奉行、江戸を奔る! 新井白石の秘文書』 (朝日文庫) です。 

 

註一・・紅葉山文庫(もみじやまぶんこ) 江戸時代,江戸城内紅葉山に設けられた幕府の文庫。寛永 16 (1639) 年徳川家康の富士見亭文庫を基礎として開設。4人の書物奉行が管理した。蔵書数は幕末で約 16万巻。明治維新後は政府の管理となり,一部が宮内庁書陵部に移管となっているほかは,国立公文書館が所蔵する。 

 

註二・・書物奉行(しよもつぶぎやう) 江戸幕府の職名。若年寄に属し、「紅葉山文庫」の図書の保管・出納や写本の作成などを担当した。 

書物奉行(しょもつぶぎょう)は、寛永10年(1633年)に設置。定員は通常は4名で、増減(35名)があった。若年寄の支配を受け、役高200俵、役扶持7人扶持、焼火の間席であった。 

職務は、江戸城の紅葉山文庫の管理、図書の収集、分類、整理、保存、調査である。著名な奉行に、青木昆陽、高橋景保、近藤重蔵、渋川敬直らがいる。 

書物奉行の配下に同心がおり、持高勤めで、元禄6年(1694年)に4人、以降増員され江戸後期には21人いた。古参の同心は世話役を務めた。また塗師・蒔絵師がいる。 

慶応2年(1866年)に廃止された。 

書物奉行の職務記録として、宝永3年(1706年)から安政4年(1857年)までの記録である全225巻の『御書物方日記』がある。 

 

今日の寫眞・・福原俊彦著 『書物奉行、江戸を奔る! 新井白石の秘文書』 (朝日文庫) と、三年前に一〇〇圓でもとめた、福井保著 『紅葉山文庫』 (1980・郷学舎)』。 

それと、京成の踏切で今年はじめて目にしたヒガンバナ。