九月廿二日(金)壬子(舊八月三日 曇天のち時々小雨

 

今日の讀書・・藤沢周平作さんの文庫本 『暗殺の年輪』 を持つて出かけてきました。もちろん古本市めぐりです。それで、いつもなら、はじめに神田の古書會館を訪ねるのですが、今日は最初に五反田の南部古書會館をめざしました。京成靑砥驛から高輪臺驛まで直通で、しかも無料パスが有効なので、ちよいと時間がかかりましたけれど、そのぶん本が讀めました。 

といふのも、一昨日訪ねた「雉子神社(雉子ノ宮)」をもつと違ふ角度から見たかつたからで、歩いてみてどうにか梅安さんの家の場所が想定できたやうに思ひます。でも、池上さんが書いてゐた時と今日でも、開發(荒廢?)がすすみ、ビルも建ちで、樣相は一變してしまつてゐるのでせう。ましてや、江戸の昔のこのあたりは起伏に富んだ畑や野つ原にすぎなかつたに違ひありません。 

あれ、この谷底の道をさらに南にたどつたら、なんと、いつも訪ねてゐる古書會館の前に到着したのでした。それに、東側は雉子神社の高臺のつづきですが、淸泉女子大學なんです。でも、そのわりにはお嬢さま方を見たことはありませんね。

 

さて、古本市。初日で、開かれた直後ですから、いつにない人出でした。かき分けるほどではありませんが、つい人よりも早く掘り出し物を探したい、ついつい前のめりになつてしまひました。いやあ、その甲斐がありましたよ。 

大久保(彦左衞門)忠敎著/中田祝夫編 『原本三河物語』 (勉誠社)、一萬圓の本がたつた二〇〇圓だつたんです! 目を疑ひましたが、○は二つしかついてゐません。これを掘り出し物と言はずしてなんと言ふべきでせう。ただ、重いので、ちよいと苦勞でした(註一)。

 

つづいて、都營地下鐵を乘り繼いで神保町に出、東京古書會館を訪ねました。目についたものは、さう、和本が二册きりでした。一つは、『爲學玉箒(いがくたまぼうき)』 といふ本です。聞いたことのない本ですが、内容が面白さうなのと、ぼくの讀解力でも讀めたからでした。で、歸宅後調べたら、手島堵庵といふ、心學の先生の著書でした(註二) 

もう一册は、『參考德川十五代記 第四號』。端本ですが、插繪も入つて面白さう。

 

ところで、藤沢周平作さん第一作の短編集、『暗殺の年輪』 の第四作の「暗殺の年輪」の中に、「海坂藩」が出てきたのには驚きました。將來の作品の構想がすでにあつたのかどうか、こんな初期から、「海坂藩」のイメージができてゐたんですね。

 

註一・・『三河物語(みかわものがたり)』 江戸幕府の旗本大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した自伝。上中下の3巻から成る。松平氏の発祥から徳川家康が天下をとり東照権現としてまつられるまでの過程で、大久保一族の忠勤と自身の活躍を述べたもの。とくに彦左衛門16歳の初陣以降の叙述は、名文ではないが具体的で臨場感にあふれている。本家大久保忠隣(ただちか)の改易以来、主君から冷遇されていた大久保一族の不遇をなげきながらも、将軍への忠勤を子孫に説くなど、当時の武士の思想や世界観を知る上での好史料である。 

 

註二・・手島堵庵(てじまとあん) 171886(享保3‐天明6) 江戸時代中期の石門心学者。名は信,通称は近江屋源右衛門。堵庵は号。京都の裕福な商家に生まれ,父宗義の薫陶を受け,18歳で石田梅岩の門に入り,やがてその後継者となって心学二世と呼ばれている。平易な言葉で師説を祖述し,心学講舎の制をたてて,教化の普及につくした。《知心弁疑》など著書は20種に及ぶ。また幼児教育にも努め,《前訓》という手引書も著している。《手島堵庵全集》全1(1931)がある 

 

今日の寫眞・・雉子神社を谷底の南側からながめた映像。中央の大きなビルの下に「雉子神社」が鎭座ましまして、手前のお寺があるこのあたりが梅安さんの家か・・・?  

南部古書會館と大久保(彦左衞門)忠敎著 『原本三河物語』 (勉誠社) と 『爲學玉箒』・『參考德川十五代記 第四號』 

それと、今朝の 「本音のコラム」。識者はみな國民を敵にまはさないやうに努力をしてゐるやうですが、ぼくは、國民(有權者)が「記憶力」が惡くて愚かだと思ひます。歴史についても、つい先だってのことについても、これは今さらどうしやうもない。困つたものです。