十月八日(日)戊辰(舊八月十九日・寒露 晴

 

今日の讀書・・午前中は、昨夜疲れて書けなかつた「日記」を書き、その後、讀みかけの藤沢周平さんの 『冤罪』 (新潮文庫) を讀みだし、ついに讀み通してしまひました。再讀でしたが、遜色ない面白さです。〈武家もの〉で、物語もさらに明るくなり、ほほえましいといふか、希望がうかがへるエンディングの數々がじつにいい。 

これは著作年代順の五册目でした。四册目は歴史小説ですのではぶき、つづいて六册目に入ります。 

 

さて、今日も、『日本紀略』 を、『大日本史料』(第二編之三) の後援を得ながら讀み進みました。といつても三頁ほどですが、『大日本史料』 のはうは、(第二編之三)から(第二編之四)に入りまして、まあ、膨大な資料を内藏してゐるわけですから、讀めるのはほんのわずかですが、興味深い記事に遭遇することしばしばです。 

讀んだ年は、一條天皇の長保二年(西暦一〇〇〇年)。 

まづ第一に目立つた記録は、道長の娘、彰子がぐぐつと位をあげていくことです。前年十一月に一條天皇のもとに入内したばかりですが、すぐに女御となり、この年二月には皇后になつてゐます。

 

それに對して不遇なのが定子さんです。道長の兄道隆の娘です。その定子さんの兄と弟の伊周、隆家は、道長の甥たちですが、道長の目の上のたんこぶでありまして、道隆没(九九五年)後、大事件を起こして流罪に處されます。そんなこともあつて、定子さんは後ろ盾をなくしてしまふわけですから、いつそう心細かつたでせう。 

そんな境遇にあつて、十二月十五日、「皇后宮定子、・・有御産事、皇女媄子」 と記されてゐるだけですが、三人目の子、媄子(びし)を生みます。ところがです、その翌十六日に突然亡くなつてしまふのです。「皇后崩給 年廿五」 とのみ、じつに素氣なく、その生涯の終止符がうたれてをります。

 

しかし、『大日本史料』(第二編之四) に目を轉ずると、その記事が一變いたします。もちろん、『日本紀略』 と 『大日本史料』 とは性格が違ふのですが、引っ張り出された史料を合はせて、およそ一〇〇頁。おもに、定子さんお抱への淸少納言 『枕草子』 からの引用です。すべて讀みはしませんでしたが、二人が相思相愛といふか、主從を超えた親しい仲だつたことをうかがはせる記事が滿載です(註一)。

 

ちなみに、十二月二十七日に、「皇后ヲ六波羅蜜寺ニ葬送シ奉ル」とあり、さらに、『陵墓一覧』といふ書物からの引用で、「藤原定子陵、京都府山城國愛宕郡今熊野村」と記されてゐます。訪ねてみたい氣がしますね。 

 

そのほかに興味深かつたのは、「十一月二十五日 東寺寶藏燒亡ス」 といふ記事です。引用された文書は、『東寺百合文書』 でありまして、そこには、「南寶藏納置取出物等」として、「灌頂會具」、「行香具」、「灌佛具」など、無事取り出された物品が列擧され、さらに、「北寶藏納置燒失物等」として、「佛具」、「諸國末寺公驗竝莊々公驗等」、「寺家官符等」のやうな文書まで記されてゐます。燒失したものや文書までわかつてゐるところなんか、記録は廃棄しましたなんて言つてゐる、現政權の防衛省や財務省のお偉いさんに知つていただきたいです。恥ずかしいでせうに!

 

おしまひは、十月四日に讀んだところの、長德四(九九八年)七月十日に、源重光が七十五歳で薨じたと書きました。『大日本史料』(第二編之四) には、その年の補足として、なんと五十頁にわたつて、さまざまな歌集や文書からの引用に滿ち滿ちてゐます。ぼくたちにはすでに馴染みもない人物ですが、かうしてみると、當時は有名な人物、いや、歌人だつたことが知られて、認識を新たにさせられます。 

調べたところ、この重之さん、實方さんに随行して、同地で亡くなられたやうです(註二)。さういへば、芭蕉が 『奥の細道』 の旅で訪ねてはゐなかつたでせうか。

 

「鐙摺・白石の城を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、藤中將實方の塚はいづくのほどならんと」、と書いてゐますね。ところが・・・。 

 

註一・・清少納言の宮仕えの期間は7年間ですが、そのうち定子が栄えたのは、彼女が出仕した最初のわずか1年半ほどでした。 

定子は清少納言に寵愛の情を示し、清少納言は定子の意向をいち早く察知し定子の意に応えようとする。定子と清少納言は、まさに相思相愛の間柄にあったのです。 

定子と清少納言。この二人の親密な間柄が分かる章段が『枕草子』にはいくつも出てきます。 

『枕草子』は、清少納言と定子の出会いがなければ書かれなかった作品です。『枕草子』は、清少納言が宮仕えを始めてから定子が亡くなるまでの7年間の後宮生活をもとに書かれましたが、強調したいのは、清少納言は定子が輝いている絶頂期の1年半にのみ焦点を合わせ、凋落が始まってからの屈辱的で悲しい出来事はほとんど書かなかったということです。あくまで、明るく輝き、意気軒昂(いきけんこう)とした定子のサロンの様子を描き切っている。ここに『枕草子』の虚構があります。この事実は、『枕草子』を読む時にぜひとも知っておいてほしいことです。 

 

註二・・源重之(みなもとのしげゆき) 平安時代中期の歌人。三十六歌仙の一人。清和天皇の曾孫で,兼信の子。伯父兼忠の義子となった。従五位下相模権守。後半生は不遇で,九州や奥州を渡り歩き,陸奥で没した。旅の歌人で,地方の名所を詠んだ歌が目立つ。東宮時代の冷泉天皇に奉った百首歌は現存最古のものの一つ。家集『重之集』。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に 65首余入集。その子女にも『重之の子の僧の集』や『重之女集』を残した歌人がいる。 

 

今日の寫眞・・勉強中、文机の下で憩ふココ。手で觸れて撫でてももう逃げなくなりました。