十月四日(水)甲子(舊八月十五日・十五夜 曇り

 

今日の讀書・・トーマス・マン+渡邊一夫著 『五つの証言』 につづいて、東野圭吾著 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』 を讀み終へました。それで、くらべるはうが間違つてゐるとは思ひますが、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』 は、ファンタジーですね、トリックといふのか、けつこう複雜に考へられてゐて、しかもすらりと讀めて、心温まるファンタジーです。樂しかつたです。

 

ところで、『五つの証言』 のうち、中野重治との往復書簡をのぞく、渡邊一夫先生の三つの文章のうち二つは、すでに手もとの本に収録されてありました。その一つ、「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」 は、一昨日讀んだ 『知識人の抗議』 に。もう一つの、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」 は、『ぼくの手帖』 といふ、講談社學術文庫のなかにありまして、すでに何度か讀みかへしたことのある文章です。 

これらに加へて、同じ學術文庫の 『人間模様』 と、講談社現代新書の 『ヒューマニズム考 人間であること』 は、ぼくの人生の道の「闇夜のともしび」と言つてもいいでせう。でも、まさか、渡邊先生の文章の一語一語が胸に迫つてくる時代がくるとは考へてもみませんでした。 

 

さてと、『日本紀略』 が、七月のはじめ頃からお休みしてゐましたけれど、そろそろ讀みださなくてはなりません。こちらのはうが、ぼくの讀書の本道、ライフワークですからね。 

『源氏物語』 は、當座は、さくらアカデミーのはうで讀み進んでいくことにして、その背景でもある、王朝時代の實像を史書からうかがつていきませう。

 

まだ、一條天皇の時代ですね。長德四(九九八年)正月から讀んでいきます。

ふーむ。中身が濃い一年です。年中行事ははぶきまして、まづ、二月十一日。道長の兄であり、前關白だつた故道兼のむすめ尊子が、一條天皇のもとに入内してゐます。 

つづく、三月四日です。「左大臣道長、病重く」、出家をしたいのでとして、辭表を出してゐるんです。このとき、道長三十三歳です。攝政關白と同等とも言へる内覽について、まだ二、三年です。しかも、まだ人生の半分しかきてゐないのに、だいぶ弱氣をだしてゐます。病氣の他になにかあつたんでせうか。もちろん、許されはしませんでしたけれど。 

四月十日のことです。松尾祭といふのがあつて、そこで「田樂」が披露されて、上も下もみなが樂しみにしてゐたのに、突然、「雜人等合戰」が起こり、京人が多數殺害され、また建物に火がつけられて、「舎屋卅餘家燒亡」といふ事件がおこつてゐます。ただ、松尾祭がどのやうな祭なのかよくわかりません。

 

さて、つづいて、何人もの方が亡くなられてゐます。僧侶では、六月十二日に、大僧正寛朝さん、宇多天皇の孫にあたる方で、八十四歳でした。また、八月一日には、天臺座主の暹賀(せんが)さん、八十二歳で入滅。お坊さんはみな長生きですね。 

公卿では、源重光が七月十日に七十五歳で薨じ、源扶義が七月廿五日に四十八歳で卒し、そして藤原佐理がその同じ日に五十五歳で薨じてゐます。それと、すでに出家した高階成忠がも同じ日に、七十六歳で薨じてゐます。 

藤原佐理さんは有名な書家で、小野道風,藤原行成とともに三跡の一人ですね。照らし合はせて讀んでゐる、『大日本史料』(第二編之三) には、原寸の「消息」の複製が添付されてゐるんですが、上手なのか下手なのか、なにしろ讀めませんでした(註一)。 

 

ところが、『日本紀略』 には記されてゐなかつたんですが、『大日本史料』 には、十二月に、藤原實方が卒してゐることが記されてゐます。ご存じのやうに、實方は、藤原師尹の孫であり、「中古三十六歌仙」の一人でもある歌人でありますね。ちよいと調べてみましたら、實方さん、左遷されて東北地方(仙台の南の名取市)で亡くなられてゐるんです。それででせうか、『日本紀略』 に記されてゐないのは(註二)。 

 

註一・・藤原佐理(ふじわらのすけまさ) []天慶7(944) []長徳4(998).12.15.

平安時代中期の廷臣,書家。「さり」とも呼ばれる。摂政太政大臣実頼の孫で,左少将敦敏の長子。正三位兵部卿。小野道風,藤原行成とともに三跡と称賛された。 

 

註二・・藤原實方 百人一首51番の作者で、中古三十六歌仙の一人。藤原忠平の曾孫で、藤原公任、藤原義孝、藤原道隆・道長、藤原斉信・道信とは又従兄弟である。 

一世紀前に活躍した在原業平と並ぶ、平安時代きってのプレイボーイで、美貌と優れた和歌のセンスの持ち主だった。「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われており、清少納言の恋人でもあった。円融天皇・花山天皇に重用されたが、一条天皇の代になると陸奥守に任命され、東北へ赴く。現地で落馬事故に遭い、倒れた馬の下敷きになってあえない最期を遂げた。 

左遷を巡っては、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生。このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたとする逸話がある。 

 

今日の寫眞・・すべてゐなくなつたと言ひましたけれど、しばらく前から、例の十二匹のうちの二匹を、ときどき晝間だけ預かつてゐます。ぼくの書庫で生まれた子です。いちばん成長がおそかつた子たちで、もらはれはしたんですが、食事を數時間おきにあげなければならないので、それで、ときたまみてゐるのです。が、まあ、可愛いとふより、命のかたまりそのものですね。こんな小さなうちから育てたらさぞかし樂しいだらうなと思ひます。