十月五日(木)乙丑(舊八月十六日 曇り

 

今日の讀書・・今朝はいつもより早く目が覺め、昨日の續きを讀みだしました。そして、朝食後は齒醫者さんへ、これも毎月の定期通院です。數分で終はるクリーニングですが、ちよぼちよぼ補修していただいたりして、たいへんありがたいです。我が家から一分ほどのところですから、突然の治療にも應じてくれてもう感謝といふしかありません。 

 

さて、繼讀中の 『日本紀略』 ですが、昨日のところで、書ききれなかつたことを追加しておきます。長德四(九九八年)六月のことですが、どういふわけか、これもまた 『日本紀略』 にはなくて、『大日本史料』(第二編之三) に記されてゐる記録です。 

「是月、承香殿女御元子、廣隆寺ニ參籠シテ産ヲ祈ル」 といふ記事です。意味深ですね。安産を祈ると理解していいのでせう。ところがです。一五〇年後の記録ですが、「保元の乱の首謀者・頼長」が、このことについてその日記 『臺記』 に書き記してゐるんです。仁平三年(一一五二年)九月十四日の日付です。 

「前一條院御時、承香殿女御、左大臣顕光女、依懐妊退去産水、時人爲奇異」 といふ一文です。一條天皇の女御元子が、懐妊と思つて實家に退去したら、流産してしまつたのでありました。『華物語』 には詳しく書かれてゐるやうですが、それははぶきます。

 

『大日本史料』 は、「平安時代の宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する」 といふ膨大な日本史の史料集でして、この「女御元子」さんのことについても、このことに觸れてゐるあらゆる書物からその部分を寫し取つてゐるんです。これはその一例です。 

 

それで、今日は、長德五(九九九年)でしたが、正月十三日に改元して、長保と改められます。「天變災旱灾」のためだとされてゐます。元號といふものは、いはば縁起ものですから、時代を一新したいと思はれるときにはひんぱんに變へられてゐます。 

じつは、長德元年(九九五年)五月から、藤原道長の日記 『御堂關白記』 が書きはじめられ、この長保元年あたりからは本格的に書かれてゐます。これには、『日本紀略』 にも 『大日本史料』 にも書かれてゐないことがらも多くてそれだけに面白いのです。 

まづ、公的な記録である 『日本紀略』 では、「二月九日 左大臣女子着裳」、とあります。左大臣道長の長女彰子の成人式が行はれました。『御堂關白記』 では、「姫の御着裳の儀があつた。雨が晴れて東三條院(道長の姉の詮子)から装束二具を賜つた。・・・」とあり、ぐつと個人的な匂いがいたします(講談社學術文庫の譯による)。

 

また、九月八日に、「自今日有卅箇日之穢」、つまり、今日から三十日間、穢れがおよぶような行事や祭りなどは延期したり、中止しなさいといふお達しがでました。それが 『日本紀略』 ではどんな理由でかまでは書かれてありませんが、『御堂關白記』 によると詳しいです。 

「道方朝臣が来て云つたことには、『内裏に触穢の定がありました。殿の直廬の下に死体が有りました。八、九歳ほどの童でした。所々を犬に喰われてゐました』と。」それで、協議の結果、「三十日の死穢と定められた」といふのであります。死体の状況によつて、いはば、内裏に穢れがいつごろまで殘るかを判斷してゐたわけでありますね。 

 

その他、「十一月一日 左大臣第一息女從三位藤原彰子入掖庭」。彰子さんが一條天皇のところに入内し、この數日後には女御となるんですが、このとき彰子さん十二歳でした。 

さういへば、『源氏物語』 の〈葵〉の卷で、源氏と結ばれる紫の上が、そのときやはり十二歳でしたね。『源氏物語』 が、後にこの彰子さんに捧げられたことを思ひあはせると、紫式部はだいぶ意識してゐたのかも知れません。 

それと、その紫式部に關係したことなんですが、「十一月廿七日 發遣宇佐使左衛門權佐藤原朝臣宣孝」 といふ記録です。九州の宇佐神宮に使ひが出されたのですが、それが藤原宣孝(四十七歳)でした。ついでに調べてみると、この年長德五年=長保元年(九九九年)の正月に紫式部(二十七歳)と結婚してゐるのであります。新婚早々しばらくの別居を強ひられてしまつたのです。こんなことも押さえておきたいですね。 

 

註一・・藤原元子 生年・没年不詳  平安時代中期の一条天皇女御。承香殿。藤原顕光と盛子内親王の子。「もとこ」とも。その懐妊に第1皇子誕生が期待される。父の堀河邸に退出の際、一条天皇の女御で懐妊せぬ藤原義子に元子の侍女が「簾だけが孕んでいる」と皮肉をいったという。しかし元子は流産、ただ水を生んだという。一条天皇の死後、源頼定と密通。怒った父に髪を切られ、受戒。しかし、夜逃げして頼定と結婚し、女子を生む。 

參考書 角田文衛『承香殿の女御』(中公新書) 

 

註二・・『台記』(たいき)は、保元の乱の首謀者・宇治左大臣藤原頼長の日記で、保延2年(1136年)から久寿2年(1155年)まで19年にわたる。自筆原本は失われて存在しない。保元の乱前夜の摂関家や当時の故実を知る上で優れた史料である。頼長が稚児や舞人、源義賢ら武士や貴族たちと男色を嗜んでいたことも書かれており、当時の公家の性風俗を知る上で貴重なものとされる。 

 

今日の寫眞・・昨日のつづき。