十月廿六日(木)丙戌(舊九月七日 晴

 

第九報・・・「天理・京都紀行」も3日目を迎へました。 

お読みくださつている方には感謝。これをもつてお礼とさせていただきます。

 

さて、今日は天皇陵をめぐりましたが、つらいことこの上ありませんでした。 

四条大宮駅から嵐電で帷子ノ辻駅経由、宇多野駅まで乗りまして、まづは一条天皇の父、円融天皇陵を訪ねました。すでに訪ねた光孝天皇陵の近くの住宅地のなかにありました。その前の坂道をさらに上り、嵯峨天皇陵ほどではありませんでしたが、石畳の道をジグザグと登りつめたところに、円融天皇の父である村上天皇陵。途中に荷物を投げ出して登りました。

 

つづいて福王寺バス停から、59番のバスで竜安寺前まで行き、途切れることのない観光客をはた目に、お寺の裏山に回りこみました。三条天皇の娘、禎子内親王陵と、一條天皇のもう一人の子、後朱雀天皇陵と、その子後冷泉天皇陵と後三条天皇陵はすぐ見つかりましたが、肝心の一条天皇陵が見つかりません。台風のあとで枯れ枝などが積もつた石畳の道が見えたので、ダメもとと思つて登りました。その嶮しさと距離、村上天皇陵の比ではありませんでした。 

いいかげん登つたところで、子どもの声がするので、それをたよりにたどり着いたところ、なんと保育園の子どもたちで、別の山道を通つてきたやうです。はたして、一条天皇と堀河天皇の陵墓でした。そこはまた眺めのよい山の頂上で、汗がひくまで一休み。

 

下山し、さらにバスで金閣寺まで乗り、その少し先にある三条天皇陵を訪ね、そして今、花山天皇陵で休憩中です。地図を見ればわかるやうに、福王寺バス停から竜安寺、さらに金閣寺までは、山裾を等高線に沿つてゐて、比較的なだらかです。三条天皇陵は中でも高いところにありましたので、花山天皇陵までは下り道。しかも市街地です。とあるそば屋でざるそばを注文しましたが、あまりにも多いのと口にあはないので半分は残してしまひました。疲れすぎてゐたからかも知れません。 

まあ、これで今日の予定は果たしたやうなものですから、今夜の宿泊地の奈良に向かふまで、のんびりしませうか? 

 

添付寫眞・・嵐電・宇多野驛。禎子内親王陵。一條天皇陵とそこからの眺め。

 



 

第十報・・・いい天気で暑くなり、チョッキをぬいでも汗がでるほどです。 

花山天皇陵で休憩してから、あとはどこを訪ねようか考へたあげく、明日に予定してゐた中宮定子さんのお墓参りに行くことにしました。 

バスと京阪電車を乗り継いで東福寺駅下車。なんべんも地図でシュミレーションした道をたどりました。が、地図では高低差があまりよくわかりません。住宅地の登り坂を途中から山道に入り、さらに急な石段を登つた頂上付近に、定子さんのお墓、陵墓がありました。一条天皇の中宮で相思相愛でしたが、最後は苦しみのうちに息絶えたのでありました。 

そこからは京都のまちが一望。東寺の五重塔がシルエットとなつて眺められました。

いつたん石段を下り、陵墓入り口前の道をさらにのぼつていくと、そこは泉涌寺の境内。あちこち探してやつと、『枕草子』 の著者、清少納言の歌碑を見つけました。お仕へする定子さんをあくまでも美しく描きつづけた才女でした。 

また、本堂の裏山が天皇陵となつてゐて、月輪陵といふのですが、いつぺんに十四人の天皇の陵を探訪したことになりました。ラッキーでありますね。でも、四条天皇を除くと、みな近世の天皇でありまして、つまりすべて江戸時代の天皇陵といふことになります。ただ、孝明天皇は別のやうです。

 

東福寺駅までは下り坂、丹波橋駅で近鉄に乗り換へて、無事、橿原神宮前駅に到着。飛鳥・奈良時代の紀行では定宿だつたホテルにチェックインしました。 

夕食は駅近くの店でいただきましたが、注文したおでんが巨大なのにはびつくり! 大根とこんにゃくとはも天だけ、どうにか平らげて出てきてしまひました。 

で、今日一日で、17650歩でした! おやすみなさい。 

 

添付寫眞・・一條天皇皇后定子鳥戸野陵。泉涌寺。清少納言の歌碑。月輪陵。