十一月(霜月)一日(水)壬辰(舊九月十三日 曇りのち晴

 

今日の讀書・・今日からまた、繼讀中の 『日本紀略』 を讀みはじめました。どうしても間が空いてしまひますが、『源氏物語』 も讀んでゐますし、時代小説も、冒険小説も讀みたいし、仕方ないでせう。

 

さて、二十日ぶりでしたが、長保三年(一〇〇一年)三月から、この年の閏十二月までの數ケ月を讀んでみました。この年も中身が濃くて、しかも、先日訪ねた史跡がいくつも登場いたしました。

 

この年はまづ、疾疫(疫病)が大流行で、「道路死骸其數ヲ知ラズ。葬ツタ輩、其數幾萬人」といふありさまだつたやうです。一應政府としても、大極殿で千人の僧侶に壽命經を讀ませたり、大祓をして疾疫を攘つたりはしましたが、効果はありません。 

そんな四月廿五日、「山城守正五位下藤原宣孝卒ス」 といふ記事が、『大日本史料』(第二編之四) に記されてをりました。紫式部の夫ですね。二人の間には、賢子と言ふ娘がをり、歌人としては大三位として有名で、先日訪ねた廬山寺(紫式部邸宅跡)に歌碑がありました。

 

そしてもう一人、藤原誠信(さねのぶ)といふ人物が亡くなつてをります。「九月三日、參議從三位春宮權大夫藤原朝臣誠信薨。卅八」。道長とは從兄弟にあたりますが、だいぶ鼻つまみ者だつたやうです。『大鏡』 によりますと・・。 

官位爭ひで、弟の齊信(ただのぶ)に負けたと知り、「むらむらと憎しみの心を起こされて、除目のあった翌朝から、両手をぎゅっと握って、『齊信と道長にわしはだまされてしまったぞ』 と言い続けて、・・・七日目にお亡くなりなさいましたよ。そのとき握りしめられたお指は、あまりの強さのため、お手の甲にまで抜け出ていたそうです」。とありまして、攝關政治における官僚の生き様のすさまじさとでもいふのでせうか、驚くべきものです。

 

さらに、東三條院・詮子さん、いつも氣にかけてゐた道長の姉であり、一條天皇の母親でもありますが、閏十二月廿二日に崩御されてゐます。葬儀は鳥部野で盛大に行はれました。が、その後、『榮華物語』 によりますと、「お骨は道長が持って木幡にへ向かった」とあるのであります。さう、先日訪ねた、木幡の「宇治陵」です。きつとこのときには、詮子さんのお墓に葬られたのでせうが、それがわからなくなつたので、今日では、宇治陵1號(總遙所)で祀つてゐるといふことなんでせうね。それにしても、讀書と探訪が一致して、ちやうど良い時期にたづねられたものです。

 

お氣づきのやうに、死去したことについて、身分によつて言ひ方が違ひます。天皇や上皇、皇后に準じた方は「崩御」、三位以上の公卿は「薨」、そして、それ以下は、藤原宣孝のやうに「卒」です。まあ、死んでからも人は差別されるものなのですねえ。ぼくなんか、「くたばつた」、とでも言はれさうです。はい。

 

また、この年も、内裏が焼亡してゐます。すると、天皇や中宮彰子さんたちは、里内裏に移らなければなりませんでした。「十一月十八日、内裏焼亡。・・中宮、上東門第ヘ行啓」。それは、自分の実家と言つてもいい、道長の私邸、上東門第(土御門第)だつたのです。ここにも行きましたね。御苑のなかでした。といふわけで、思ひ出をあらたにしながらの讀書でした。 

 

今日の寫眞・・昨日、タブーを犯して求めた新刊書の二册。と、重たいモモタ。