十一月二日(木)癸巳(舊九月十四日 晴

 

今日の讀書・・『日本紀略』、今日は、長保四年(一〇〇二年)正月から順調に讀み進みました。と言つても、切りのいい 「後篇十」 の終り、長保五年十二月までの二年間だけでしたけれど、氣になつた人物がひとり登場しました。といふか、その死亡記事ですから、最期の報告といふところでせう。

 

「長保四年六月某日 入道彈正尹二品爲尊親王薨」

 

この人物、知る人ぞ知るで、けつこう有名です。例の戀多き和泉式部の愛人としてでもありますが、またその死にざまに關しても、口うるさい女房たちからあれこれ噂されてゐたやうなのであります。まいどお世話になつてゐる、與謝野晶子譯による 『榮華物語』 では・・。 

「情人たちのために弾正の宮の爲尊親王は今でも夜歩きをおやめにならないのを、 『あれでは流行病におつかれになるかも知れない、少しはお慎しみになる方がいいのに。』 などと世間では陰言をしていたが、そのとおりのことになって、宮はひどい煩いようを遊ばして薨去になった。近い頃は和泉式部や新中納言の君などという人々を愛しておいでになって、云々。」 

と、散々な言ひやうですが、亡くなつた日も分からずに、「某日」ですからね。まあ、それでも考へるところがあつたのか、生前の親王は、藤原行成の日記 『權記』 にその名が頻繁に登場するのです。 

 

ふり返つてみると、講談社学術文庫の中卷の冒頭、長保二年十一月の一日に、「帰宅した。左府(藤原道長)及び東院(爲尊親王室)の許に参った。」とありまして、以後頻繁に行成は爲尊親王を訪ねてゐるのです。相談事でもあつたのでせう。三日つづけてといふ場合もありました。そして、その最期については。 

長保四年六月十三日、「昨日と今日は物忌であった。丑刻の頃、維弘が来て、云ったことには、『〈彈正宮が薨去された〉ということです』と。すぐに維弘が参入した。」 

日ごろ大變忙しい行成ですが、昨日今日と物忌で自宅で過ごしてゐたのでした。が、物忌の禁を破つて、しかも夜中の二時頃にとび込んできた人物が、彈正宮爲尊親王が死んだことを傳へにきたのです。御年、二十六歳の若さでした。 

 

「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ明し暮らすほどに・・」 ではじまるのは、『和泉式部日記』。爲尊親王を失つたかなしみに打ちひしがれてゐる式部ですが、このあとすぐ、爲尊親王との仲を取り次いでゐた「小舎人童」のとりなしで、こんどは弟の、帥宮敦道親王との戀愛がはじまりまして、その赤裸々なご關係を書き記したのが 『和泉式部日記』 なのでありますね。いづれ讀みたいとは思ひますが・・。

 

註・・爲尊親王(ためたかしんのう) 貞元2年(977年)~長保4年(1002年)6月 平安時代中期の皇族。冷泉天皇の第三皇子。母は藤原兼家の娘超子。三条天皇の同母弟。官位は二品・弾正尹。

 

今日の寫眞・・今日のココ。