十一月五日(日)丙申(舊九月十七日 晴

 

今日の讀書・・今日は、鳥羽離宮跡を訪ねたことを切つ掛けとして讀みはじめてゐた、神坂次郎さんの 『藤原定家の熊野御幸』(角川文庫) を讀み通しました。 

「鳥羽離宮は、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四上皇が建てた離宮であり、みなそこで精進潔斎して熊野に旅立つて行つた」 といふことを後で知つたからです。しかも、熊野古道といへば、二〇〇四年十月に、亡き父と、ツアーででしたが一緒に歩いたところでもあります。

 

書名に、「藤原定家の」 と、なぜついてゐるかと言へば、「熊野御幸」大好き人間の後鳥羽院に同行を命じられた藤原定家の日記 『後鳥羽院熊野御幸記』 を媒體にしてといふのか、それに沿つて熊野御幸の旅を描いてゐるからなのであります。 

ついでですので、〈群書類従特別重要典籍集〉の中の 『後鳥羽院熊野御幸記』 を讀んでみようと思ひあがり、純粋の漢文にくらべればやさしい和製の「變體漢文」ですので取り組んでみました。 

あまり上手とはいへない字で、塙保己一の弟子のだれかが書寫したのでせうか、それはがまんして、神坂さんが引用した部分だけでも、原文にあたつてみました(今日の寫眞參照)。が、まあ、歌人であり、多くの古典文學を「校勘」された宮廷人、藤原定家といふイメージにはそぐはない、ほど遠いお姿をさらされてゐて、實に興味深く面白く讀むことができました。 

 

本書の内容は・・。「中世の人々の信仰を集めた熊野詣は、苦しい道を辿れば辿るほど来世の利益が約束されるという困難な旅であった。建仁元年、後鳥羽院に同行を命じられた藤原定家は、先駆けとしてゆく先先の儀式や食事、宿舎の世話をする役目だった。のんびり歌を作る暇もない中で、時には寝過ごして慌てることもあったが任務をまっとうした。不平不満を漏らす同行記録からは定家の人間的側面がよく見える。熊野を熟知した著者ならではの定家考。」 

 

「それにしても後鳥羽院の熊野御幸は、汗と喘ぎのなかの、すさまじいばかりの歌の旅でもあった。定家の 『後鳥羽院熊野御幸記』 によれば、建仁元年(一二〇一年)十月五日に京を発って以來、大坂四天王寺の宿舎で歌題三首、六日住吉社で披講。七日、信太宿で歌会。九日、湯浅の宿で歌会。十一日、切目の宿で歌会。十三日、滝尻の宿で歌会。十四日、近露の御所で歌会・・・と、熊野三山への往路十六日の間に、じつに十度もの歌会を催している。 

この歌びたりともいうべき後鳥羽院の、行く先々で詠んだ和歌をしたためたのが、世にいう “熊野懐紙” で、この旅から帰った翌月、後鳥羽院は御幸に随従した定家や、和歌所の寄人たち、源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経、寂連ら六人に命じて、『新古今和歌集』 を撰進させている。」

 

と、これはとても勉強になりました。

 

「熱狂的といえば、後鳥羽院の熊野御幸は、生涯二十九度。いま建仁元年の御幸は四度目で、ときに後鳥羽院二十九歳。はじめて御幸に供奉する定家四十歳。」 

ちなみに、このときの熊野御幸は、往路十六日、帰路六日。熊野三山への巡拝をすませた一行が、本宮を発ったのが二十一日、それが二十六日の夜明け前にはもう京に入り、早朝、鳥羽離宮の御精進屋に入御という速さである。」

 

今日は、神坂次郎さんの壓倒的な筆力と、定家の生の叫び聲を聞きつづけたせいで、實際に熊野詣につきあはせられたやうな、いや、一緒に歩いたやうな疲勞感を覺えますです。はい。 

 

今日の寫眞・・左から、〈群書類従特別重要典籍集〉の中の 『後鳥羽院熊野御幸記』 その冒頭。右は、二年半前に古本市で求めた參考書。すべての「王子」の場所、その平面圖が記載されてゐて、探訪するには極めて貴重な書籍です。 

ついでに、熊野古道を歩いた父との思ひ出を再び! このとき八十八歳でした。