十一月九日(木)庚子(舊九月廿一日 快晴

 

塩山散策二日目。朝からたつぷり食事をいただいて、でも力が出ないのか、疲れが殘つてゐるのか、それとも怠惰の悪いくせが出たのか、今日最初の目的地へはタクシーを呼んで向かひました。たしかに、宿のおばさんがなにもないところですよ、急な坂で歩くにはしんどいですよとおつしやられた通り、タクシーで正解でした。 

到着した、その慈雲寺はなにしろ眺めのいい高臺に、大菩薩峠へ向かふ途中にあるお寺で、境内のイトザクラ(枝垂櫻)がものすごいのでありました。春に來なくてよかつたです。でないと人々にはばまれてそばにもよれなかつたでありませう。それで、ここでもみなさんと記念撮影。

 

あれ、境内に場違ひのやうな石碑がどうどうと建つてゐました。どうも、樋口一葉の關係の石碑のやうですが、いやはやどうしてここに、と思ひました。 

この土地は、樋口一葉の兩親が生まれ育つたところだつたのです。それが、どうしてか、お二人さん、驅け落ちして江戸に出たのです。一葉の作品には、この塩山の地名が隨所に出てくるやうなんですが、それでやつとここに文學碑がある理由が納得できました。 

それにしてもこの石碑、撰(詩文)は幸田露伴ですが、筆ちよいと讀めません、が、ひらがな交じりの碑文は日本最初なんださうです(註)。 

 

註・・樋口一葉女史文学碑 慈雲寺のある中萩原地区は東山梨郡大藤村であった。同村は明治初期の女流文学者、樋口一葉の両親、樋口氏則、古屋瀧子(多喜)が生まれ育った村であり、同寺の私塾に学んだ。同村出身の両親の二女として一葉は東京で生まれ、その短い生涯の間、一度も塩山を訪れることは無かったが、彼女の作品中には両親から聞かされたであろう故郷塩山の地名が随所に出てくる。

 

一葉が没して二十六年後の大正十一年(一九二二年)、一葉の二十七回忌が行われた時、一葉の妹くにが樋口家の縁戚である廣瀬彌七とともに、一葉の文学碑建造を計画、同年十月十五日に、慈雲寺境内に建立された。石碑の裏側には、地元有志や、さらに、建立賛助者として協力した、佐藤春夫、田山花袋、坪内逍遥、森鴎外、与謝野寛、与謝野晶子など日本を代表する近代文学者の名前が刻まれている。

 

今日の寫眞1・・慈雲寺境内。日本最初といはれるひらがな交じりの〈樋口一葉女史文学碑〉と石碑裏の建立賛助者名。イトザクラとその春開化の姿。

 



 

さて、ここからは下り坂かと思つたら、いや、もう少し上らなくてはなりませんでした。が、上つてよかつたです。日向藥師から眺めた景色は、この世のものとは思へませんほどではありませんでしたが、心が晴ればれするやうでした。春には、桃の花が咲き誇り、さながら桃源郷のやうだと言ひます。

 

そこからは、もう終着の塩山驛までずつと下りで、景色が次第に變化していくのをみなさんと一緒に樂しみました。柿あり、ブドウあり、桃あり、さくらんぼありで、甲州はまさに果樹王國だと感じ入りました。また、接する人みな親切、穏やかでにこやか、こころを豊かにしてくれるところなんでせう。さういへば、大學時代からの親友マキさんは隣の山梨市出身で、ぼくも訪ねたことがありますが、優しさがあふれんばかりの人です。來てよかつたです。渡辺さんありがたうございました。

 

さう、最後の〆は、驛前の食堂で、みなさんはほうとうで一杯。ぼくは馬刺しをたのんでしまひました。 

だいぶ豫定より早く驛に着いてしまつたので時間があまり、結局午後一時すぎの鈍行列車で歸路につきました。そしてまた八王子、立川、新宿それぞれでお別れし、ぼくは新御茶ノ水驛から千代田線で歸つてまゐりました。 

今日は一日で、それでも一一五〇〇歩でした。 

次回は來年三月、會津・喜多方へ、また一泊で行く計畫をたてました。會津の馬刺しが呼んでゐます。それまでは倒れるわけにはいきません!

 

今日の寫眞2・・日向藥師あたりから見た塩山市。滝本院。畫面中央が、昨日訪ねた惠林寺。