十一月十三日(月)甲辰(舊九月廿五日 晴

 

今日の讀書・・ 『日本紀略』 に立ち返り、寛弘三年(一〇〇六年)正月から讀みはじめました。目立つ記事はそれほどありませんでしたが、今日のところでは、まづ、道長の奥さん、倫子さんに女兒が産まれたことがあげられるでせうか。『日本紀略』 にはその記述はなく、『大日本史料』 で見つけたので、さらに、現代語譯の 『御堂關白記』 を開いてみました。

 

「寛弘四年正月五日 昨日の酉剋の頃から、女方(にようぼう)は、重く病んだ。これは御産によるものである。卯剋に、女子(嬉子)を産んだ。巳剋に臍の緒を切り、乳付を行った」

 

と、まあ、長女の彰子さんは二十歳、中宮になつてゐたのに、期待されてゐるご自分がではなく、お母樣が妹を産んだわけですからだいぶ驚いたやうです。道長はこのとき四十二歳でした。 

次も 『日本紀略』 にはその記述はなく、『大日本史料』 で見かけたのですが。

 

「寛弘四年三月十日 播磨國圓敎寺性空寂ス」

 

性空(しやうくう)上人と言へば、播磨の書寫山に圓敎寺を創建した聖(ひじり)ですが、花山法皇はじめ、皇族や貴族らの歸依をうけ、たいへんな有名人だつたやうであります。花山法皇が聞き書きしたといはれる 『性空上人傳』 や、『徒然草』(第六十九段)でもとりあげられ、『古事談』、『撰集抄』、『十訓抄』、『古今著聞集』 などの説話にも登場いたします。 

ですが、もつとも興味深いのは、和泉式部との關係です。勅撰の第三和歌集 『拾遺和歌集』 に、「性空上人のもとにて詠みてつかはしける」との詞書を添へた歌がとりあげられてゐます。

 

〈暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかにてらせ山の端の月〉

 

これは、和泉式部が、晩年、この世の無常を思ひ、來世に不安を感じて書寫山に性空を訪ねたときに詠んだ歌とされてゐます。やはり、實存的な歌だと思つたのは誤りではなかつたやうですね。『古今和歌集』 の技巧を凝らした歌とは質的に違ひ、時代を超越して人の心に迫つてくるなにかを感じてしまふのです。

 

ところで、性空上人、九十八歳での往生でした。和泉式部はまだ晩年ではなく、ましてや熱々の關係の帥宮敦道親王はこの後で亡くなるのですから、やはり説話なんでせう、晩年に性空上人に會ひに行つたのはありえないのであります。

 

さらに、寛弘四年八月、道長は金峯山にお詣りに行つてゐるのですが、これがまたちよいとした旅日記といふか紀行なんですね。後日述べることにして、ここで寝ることにします。 

 

今日の寫眞・・お借りした性空上人畫像と、今日のココ。