十一月十七日(金)戊申(舊九月廿九日 晴

 

今日の讀書・・『日本紀略』 寛弘五年(一〇〇八年)の記事のつづきです。 

二月八日に、お騒がせ天皇だつた花山法皇が亡くなつてゐます。四十一歳。第六十五代の天皇で、在位は、九八四年から九八六年までのたつた二年間でした。 

天皇も當時は外戚の威光に支へられてこそ活躍できましたが、花山天皇の場合、攝政であつた外祖父伊尹は、花山が十七歳で即位した時には既に亡くなつてをり、それが二年足らずの在位といふ結果を招いたといへるやうです。 

しかし、その突然の退位も、花山が戀に溺れてゐた女御の死を悲しむあまり、藤原兼家らに欺かれ、出家せざるをえなくなつて退位したといふ次第で、當初はたいへんな怒り悲しみやうでしたが、退位後は佛事や風流をこととし、和歌もよくし、『拾遺和歌集』 の撰者に擬せられてゐます。花山法皇は、また、書寫山の性空に歸依し、九八六年七月と一〇〇二年三月の二度にわたつて御幸されてゐます。 

墓所は、京都市北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)で、はい、先日訪ねてきたばかりのところであります。 

 

また、九月十一日には、「午時、中宮、左大臣土御門第に於いて皇子を御産」。 

一條天皇の中宮彰子さんに皇子(のちの後一條天皇)が誕生しました。待ちに待つた道長の孫の誕生です。それは、天皇の外祖父道長の誕生でもありました。 

道長の喜びぶりは、『古事談』 や 『紫式部日記』 に詳しのですが、ぼくは、『紫式部日記絵詞』 に注目し、昨夜讀んでみたんです。内容はもう、『紫式部日記』 といふよりは、皇子誕生から、その直後の晴れやかな産養(うぶやしなひ)の行事の様子が繪と詞書でこれでもか、これでもかといふくらゐつづくのです。 

その中に、若宮を抱く彰子さんと、その孫をながめる道長の繪がありましたので、今日の寫眞に載せました。 

 

しかし、その道長の榮華の陰にあつて、忘れてはならない方々がをります。「敦康親王御惱」といふ記事が何度か目につきました。一條天皇の長男でありながら、中宮定子さんの皇子ですから、疎外され、日影暮らしを餘儀なくされてゐたわけで、「御惱」にもならうといふものです。そのうへ、妹が亡くなつてをります。 

「五月廿五日 今上第二内親王-薨 年九」 

みな一條天皇が誰よりも愛された中宮定子さんのお子たちです。 

 

明日は、學習院さくらアカデミーです。『源氏物語』 の〈帚木〉を豫習いたしました。内容もさることながら、くづし字がよりくづされてゐてむずかしい。

 

今日の寫眞・・花山天皇の紙屋川上陵。『紫式部日記絵巻』より、若宮を抱く彰子さんと道長。