正月廿五日(木)丁巳(舊十二月九日・上弦 晴、冷える

 

先日、ご近所の男性が亡くなりました。まだ六十一歳といふから、ぼくより十歳も下の方でしたが、その通夜が今晩行はれました。 

その方の母親がやはり近所に住まはれてゐて、連絡しても返事がないので直接訪ねたときには亡くなつてゐました。救急隊員から警察に連絡がなされ、檢死官が來て徹底的に調べていきました。當然解剖に付されましたが、死因がはつきりしてゐたやうで、すぐに返され、不審死にしては早く葬儀が行はれました。

 

ぼくも、數十年も前のことですが、隣りの愛子おばあちやんが亡くなつたときの第一發見者になつてしまつたことがありました。その時、檢死官から同じ話を何遍も何遍もさせられて夜が明けてしまひました。醫師が死亡診斷書を出せないところで死ぬことは大變なことであることを思ひ知らされた出來事でした。

 

その方は、理由があつて、お一人で住まはれてゐました。出かけるときなど、たびたびお會ひすることがありましたが、病弱な方だなといふことは知つてゐました。けれど、突然、獨りでゐた時に死に直面したことを思ふと、どんな氣持ちだつたのかなあ、氣の毒だなあと思ふ反面、すでに覺悟でもされてゐたのだらうなとも思ひます。いづれにせよ、人は、突然に、しかも獨りで逝かなければならないのです。 

 

今日の讀書・・『増註源氏物語湖月抄』 今日から〈賢木〉を讀みはじめました。すでに、「靑表紙本」で讀む 『源氏物語』、「紫上系」第六帖目の〈賢木〉を繼讀中ですが、十二月の半ばで休止してゐたので、豫習もかねて最初から、それを 『湖月抄』 で讀みはじめたといふわけです。 

さすがに大きな本ですので、橫になつて讀むわけにはいきません。胡座にモモタとココを抱きながら、それでものんびりと讀み進めました。影印の「靑表紙本」にくらべたら當然のごとく讀みやすいし、諸註に注目しいしい讀んでいくと、詳しい頭註よりも、讀み進むにあたつては、傍註のはうが參考になりました。

 

例へば、伊勢へ下向する御息所が、源氏への御返しの和歌を書いたときの文章は、「ことそぎてか(書)き給へるしも」とあります。その「ことそぎて」の傍らに、「【細】旅の中なれば也」と記されてゐるんです。【細】は『細流抄』の略です。で、これは、「ことそぎて」の意味そのものではありません。旅の途中だから 「言葉少なに」とか「簡略に」とか、「あつさりと」書いたといふ意味になるのですよ、といふことを示してゐるんですね。直接の意味ではなく、示唆してゐるだけのところが、珍しいといふか、この 『湖月抄』 ならではの方針なのか、とても興味深い傍註だと思ひました。

いや、すでに讀者がこの意味を知つてゐることを前提にしてゐたかも知れませんね? 

 

橫になつて讀むのは、小學館の新編日本古典文学全集 『十訓抄』 です。影印本で讀んできて、意味が分からなかつたところが多々あり、復習がてら、はじめから影印とともに讀み出しました。一應教訓書ですから、何を言はんとしてゐるのか分からなければ讀んだことにはなりません。 

 

今日の寫眞・・講談社學術文庫版 『増注源氏物語湖月抄(上)』 を解體して綴じた、分册。かうしておくと、橫になつてゐるときに復習できます。それと、今日のモモタとココ。仲よく抱き合つて、ココも、ぼくの膝の上が氣に入つてきたみたいです。