二月八日(木)辛未(舊十二月廿三日・下弦 晴

 

今日の讀書・・さて、今日も、『源氏物語』 の〈賢木〉の卷を讀みつづけました。「靑表紙本」で七五頁から、八八頁あたりまで。雲林院で心静めてきたのかと思ひきや、朝顔の君とよりを戻さうとしたり、また、歸宅すれば紫の上にめろめろになりながらも、忘れられぬ藤壺に文を送り、さらに、藤壺に會ひたいがためが半分の參内で、今上天皇の朱雀院と親しくお話をかはし、結局は藤壺のまぢかに忍び入り、「御けはひもほのかなれど、なつかしう聞こゆるに、つらさも忘れて、まづ涙ぞ落つる」のでありました。 

 

《東京散歩》(第十七回・つづき) 

つづいて、目白驛を遙かに見わたせる山手線・埼京線の線路を渡り、舊長崎道といふのですが、へんてつもない路地をたどり、明治通りを越えると、そこは先日訪ねたばかりの鬼子母神。境内を抜けやうとしたら、先日の〈手創り市〉のときには出店と人で氣づかなかつた茶屋ならぬ駄菓子屋が一軒ぽつんとたつてゐるのでした。通り過ぎやうとしたんですが、中にゐたおばさんと目があつてしまひ、近寄つてお話するはめになりました。すぐ脇にそびえるイチョウの木が落雷で大枝を落としたこと、おばさんがぼくの九十四歳の母と似かよつてゐることを口にしたら、目の前にならぶ容器から駄菓子をいくつかおみやげに持たせてくれたときには恐縮してしまひました。 

ちなみに、古本市が「みちくさ市」といふフリーマーケットで、境内のはうは、〈鬼子母神手創り市〉と言つて、やはり、別の主催でした。 

 

さて、都電の鬼子母神前驛を過ぎ、鬼子母神表參道を南下して、目白通りを越えると、住居表示が、雑司が谷から高田にかはりました。そこからは、道が落ち込むやうな下り坂がはじまり、その途中に、「江戸五色不動」のひとつ、目白不動がありました。ここは昨年、五色不動めぐりのときにやつてきたところです。 

さらに下ると、南藏院。ガイドブックには、「彰義隊九士之首塚」があるとあつたお寺です。ところが、墓地の入口に、「散歩者はご遠慮ください」と書かれてをり、氣の弱いぼくは入れませんでした。ここはまた、三遊亭圓朝の名作 『怪談乳房榎』 の舞臺になつたお寺であり、『江戸名所圖繪』や『新編武藏風土記稿』にも記されてゐるやうです。 

南藏院のななめ前には、「鳥居・狛犬は江戸時代造」といふ氷川神社。すると、谷底でもある神田川にかかる面影橋が見えてきました。「廣重の『江戸名所百景』に描かれた橋」でありまして、たもとには、太田道灌の傳説にちなんだ「山吹の里」の碑が建つてゐました(註)。 

 

註・・あるとき、大田道灌がこのあたりに鷹狩りに出て雨に遭い、農家の若い娘に蓑を借りようとした。すると娘はただヤマブキの花を一輪差し出した。 

後に道灌は、それが「七重八重 花は咲けども山吹の みの一つだになきぞわびしき」という古歌にかけた答え=残念ながら蓑はない、という意味だったことを家来から教えられ、自らの教養のなさを恥じ、以後は和歌を学ぶようになった。というのがその故事の中身で、この付近がその「山吹の里」だという話。 

 

走り去る都電を尻目に、新目白通りを越えて、なほも直進すると、こんどは上り坂、坂の名はわかりませんが、一氣に早稻田通りに到着しました。出發が一時四五分、今、三時三〇分ですから、だいぶ時間を費やしてしまひました。が、ゴールの高田馬場驛まではあと一息。古本屋街はこの際無視し、さらに直進して、諏訪通りに出ました。この道路ははじめてです。そこを右折すればあとわづか、と思つたのが大間違ひ。 

明治通りを横斷し、諏訪神社で休憩したところ、「明治天皇射的砲術天覽所阯」なんていふ石碑が建つてゐて、疲れてゐながらも考へさせられました。天覽は明治十五年十一月です。それがその土地の人々にとつて名譽なら、その時に建てればよかつたはづで、實際に建てられたのは昭和十八年十二月、戰意高揚が叫ばれてゐたときです。歴史はこのやうにして、その時、その時代に都合よく過去の出來事を利用するのです。

 

《中仙道を歩く》では、「明治天皇行在所」とか、「休憩所」とか、「小休所」とかの「明治天皇巡幸記念碑」を、嫌になるほど見てきました。巡幸そのものは、明治初年から十年代にかけて全國を巡つて行はれ、これにもとんでもない意圖が込められてゐたのですが、記念碑が建てられたのは、昭和十年代がほとんどで、戰時體制強化の一貫としてなされたことは一目瞭然であります(『歴史紀行三十四 中仙道を歩く十九 下諏訪宿~贄川宿 前編』參照)。 

このやうに、過去のできごとは、その時代の權力によつて利用されたり、ねじ曲げられることさへあるのです。歴史を學ぶことの意義は、それらを質していくことにあるといふしかありません。 

 

さて、ラストスパートと思ひきや、道路に出たら人の波、まだ終業時間には早いはづですが、逆らつて歩くのもめんどうなので、熱くなつた氣持ちを冷ますのにも都合よく、波にのつて高田馬場驛まで流されていきました。 

ゴールの驛前には四時二〇分到着。正味一〇二六〇歩でした。振り返ると、池袋驛から、學習院大學を大きくめぐるやうな散歩コースでした。 

 

今日の寫眞・・目白驛を遙かにのぞむ跨線橋から。鬼子母神境内の駄菓子屋さん。目白通りを越えた「宿坂」の上から。この坂、「別名くらやみ坂。鎌倉街道を旅する人がここに宿泊したので宿坂と呼んだ。中世は坂下に関所があったという」。 

「目白不動」と下つてきた宿坂を望む。つづいて南藏院と、面影橋のたもとに建つ「山吹の里」の碑。さいごは、「明治天皇射的砲術展覽所阯」碑と説明板です。