二月廿二日(木)乙酉(舊正月七日 みぞれ

 

今日の讀書・・冲方丁著 『はなとゆめ』 を讀み終はりました。はじめて、冲方丁の著作を讀みましたが、これは男性が書いたものだと言はれなければ、女性が書いたと思つてしまつたでせう。全編、切々と訴へる淸少納言の獨白です。ですから、いはゆる作者の語りである「草子地」がなく、判斷の仕樣がないといふこともあります。 

内容紹介の記事によれば・・・「なぜ彼女は、『枕草子』を書いたのか――。28歳の清少納言は、帝の妃である17歳の中宮定子様に仕え始めた。華やかな宮中の雰囲気になじめずにいたが、定子様に導かれ、その才能を開花させていく。機転をもって知識を披露し、清少納言はやがて、宮中での存在感を強める。しかし幸福なときは長くは続かず、権力を掌握せんとする藤原道長と定子様の政争に巻き込まれて……。清少納言の心ふるわす生涯を描く、珠玉の歴史小説! 

ただ、淸少納言の生涯を描ききつてゐるわけではないけれど、『枕草子』 がどのやうにして書かれたかがよくわかりました。解説では、「中宮定子に、侍女として仕へた清少納言が、定子に導かれ成長してゆく道のりと、やがては定子を支へる存在となる心意気を描く、いわば平安時代のキャリアウーマン小説である」、と言つてゐます。

 

でも、ぼくが感心したのは、「(父・關白道隆亡き後の中宮定子さん家族が、道長のもくろみによつて)四面楚歌でほとんど絶望的といってよい状況を生きた」、淸少納言と定子さんですが、淸少納言は、それを、「中宮様の番人」(定子さんをお守りする楯)と自認して、「(定子さんの)最も素晴らしく、愛しい思いでだけを残してゆくのです。愛した華のすべてが、千年ののちも輝き続けてくれることを願って・・・・」として、『枕草子』 を書き綴つてゐることです。それはまた、のちの世が、「悲劇のきさき・定子の記憶を薄れさせ、良かったことばかりを思い出すようになった。清少納言は世間の記憶の書き換えに成功したのである」、といふのです。 

たしかに、『枕草子』 を讀んでも、そこには中宮定子さんの美しく輝しい姿しか描かれてゐません。いや、これは讀み囓つただけの感想ですが。實は、このことが、例のライバル、紫式部を苛立たせたせたらしいのですね。 

「あんなに大変な境遇にあったのに 『あはれ』 や 『をかし』 ばかりを並べたてて、嘘だらけ」、と 『紫式部日記』 に書いてゐるさうですが、事實、「淸少納言の『嘘』が、リアルタイムで力を発揮し、定子の死後、その生前とは逆に、貴族社会は定子の時代を懐かしく思い出すようになった。『あの頃は、気の利いた女房たちがいたものだね』と。」 

紫式部としたら、くやしかつたのでせう。抹殺されたはづの定子さんの姿と淸少納言が、その美しく輝く姿がいつまでも、後世に記憶されつづけることが。ぼくも、『源氏物語』 を脇に置いて、淸少納言の意圖した「嘘」に染まつてみたいと思ひました。

 

テキストは、笠間影印叢刊 『枕草子能因本 上』 (笠間書院)です。これは、「三条西家旧蔵・現学習院大学蔵の上下二冊本をはじめて影印。近時、諸家の間で三巻本を作者の草稿本、能因本を作者自身の手入れ本とする向きが多いようだが、そうだとすれば能因本は等閑に付せない重要な本である」、といふものです。 

 

今日の寫眞・・冲方丁著 『はなとゆめ』 と、姉妹編の 『誰も書かなかった 清少納言と平安貴族の謎』。讀む豫定の、笠間影印叢刊 『枕草子能因本』。 

それと、切り抜き・《薩長史観を超えて》の三回目。