三月十二日(月)癸卯(舊正月廿五日 晴

 

今日の讀書・・『武王の門』 の主人公、懐良親王の九州平定の出來事は、實は、『太平記』(註) には記されてゐません。『史料綜覽』 にしても、「阿蘇文書」等の古文書を年代順に記述してゐるだけで、全體像を描いてゐるわけではありません。 

『太平記』 は、懐良親王が九州で全盛を誇つてゐた、正平二十三年(一三六八年)の時點のところで閉じられてゐますから、他にあるとしたら、『後鑑』 と 『續史愚抄』、または個々の古記録(師守記、園太暦等)にしか求められないのでせう。 

また、北畠親房が書いた 『神皇正統記』 のうち、第九十五代後醍醐天皇の部分を永原慶二さんの現代語譯で讀みました。永元四年(一三三九年)に執筆された文書ですから、當然懐良親王の九州平定の出來事は描かれてはゐません。が、それにしても、一三二九年生まれの懐良親王についての言及がまつたくないのには、ちよいとがつかりしました。 

それにしても、著者の北方謙三さん、南北朝のはじめから書いてくれればいいものを、終りのはうから書くなんて、生まれ故郷でかつて知つたる九州の地を最初に舞臺にしたかつたのでありませうか。 

 

註・・『太平記』(たいへいき) 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。

 

それと、『枕草子』(能因本) を毎日少しづつ讀んでゐますが、あれ、こんなところに書いてあつたんだ、といふ記事に出會ひました。それは、村上天皇の女御であり、宣耀殿女御とも呼ばれた芳子さんが、『古今和歌集』 二十巻すべてを暗記してゐたといふはなしです。 

 

「村上の御時、せんようてんの女御と聞えけるは、小一條の左大臣殿(藤原師)の御むすめにおはしましけれは、たれかはしり聞さらん。また姫君におはしけるとき、ちちおととのをしへ聞させ給ひけるは、『一には御て(手)をならひたまへ、つきにはきん(琴)の御ことを、いかて人にひきまさんと仰せ。さて古今廿卷を、みなうかへさせ給はんを、御かくもんにはさせたまへ』となん聞えさせ給ひける」 

 

そして、この噂を聞いた村上天皇が、ほんとうに暗記してゐるのか、物忌みの日に試験しましたところ、芳子はすべて間違へることなく暗記してゐた、という記事です。また、この話は、皇后定子さんが語つた話だつたんですね。 

參考書を讀んで知ることもいいですけれど、やはりそのもとの記事に出會ふといふのはまた格別です。 

 

さらに、今日も、妻が借りて來てくれたDVD、『ブレードランナー2049』 を見て過ごしました。ハリソンフォードがちよい役だつたのは、仕方がないとはいへ、LA市警役のライアン・ゴズリングが澁くてよかつた。 

 

今日の寫眞・・ネットから借用した、懐良親王の肖像畫 「懐良親王の肖像画は、鹿児島市南部にある谷山神社の神殿内で見つけた。この神社の祭神は懐良親王である。鹿児島市谷山は懐良親王が九州で初めて征西府を開いた土地で、ここで六年を過ごしている。」