三月十三日(火)甲辰(舊正月廿六日 晴

 

今日の讀書・・『武王の門』 の讀んだところまで、『史料総攬』 にして二一〇ページほどを通讀してみました。 

正平二年(一三四七年)十二月に、薩摩から「肥後ニ赴」ゐた懐良親王が、辛苦のすゑ、肥後の菊地とともに、征西軍旗をかかげて九州制覇にのりだしたところのあたりまでです。そして・・・

 

「正平八年(一三五三年)七月九日 是ヨリ先、菊地武光、一色ノ兵ヲ肥前仁比山朝日ニ撃破ス」 (阿蘇文書、島津文書、等々)

 

とありまして、滿を持して動き出した場面の記録です。 

それとともに、懐良親王は、半島における高麗王朝の支配に對抗する民とともに船團を組織しはじめた忽那義範の薦めで、どうも半島へと目を向けはじめるのであります。これが、「倭寇」と呼ばれる水軍ですから、さてどうなるのか、乞ふご期待といつたところです。 

それと、この五、六年の間に、重要な人物が亡くなつてゐます。 

 

正平五年(一三五〇年)四月八日 卜部兼好死ス 

正平六年(一三五一年)九月三十日 前天龍寺住持夢窓疎石寂ス 

正平七年(一三五二年)二月廿六日 足利直義、鎌倉ニ死ス 

 

京都周邊や東國では戰亂がつづいてゐるわけです。それらについては、『武王の門』 に引きつづく著書が物語つてくれるでありませう。

 

今日の寫眞・・今日の靑木さんと玉ちやんは冴えてゐました!