三月十五日(木)丙午(舊正月廿八日 晴

 

今日の讀書・・『武王の門(上)』 を讀み終り、今日もその讀んだところまで、『史料総攬』 にして一二〇ページほどを通讀してみました。 

正平八年(一三五三年)七月九日、菊地武光が北九州諸勢力に攻勢に出たところから、正平十四年(一三五九年)年末までの六年あまりです。

 

征西府軍では、征西將軍宮・懐良親王と菊地武光が「夢」を同じくし、ここが、北方謙三の持ち味だと思ふのですが、男同士ともに力をあはせて、足利尊氏といふ「棟梁」に靡いてゐる豪族を從はせていくのであります。なかでも手強いのが、大宰府に陣取る武將、少貳賴尚でありました。

 

「正平十四年八月六日、是ヨリ先、少貳賴尚、同直資、南軍(征西府軍)ヲ伐タントシテ大宰府ヲ發シ、糸田ニ陣ス、懐良親王ノ軍、筑後川ヲ渡リ、是日、兩軍、大保原ニ戰フ」(太平記他諸家文書

 

この、「十数万の兵がぶつかり合つた」大保原(おほほばる)の戰ひで、物語では、懐良親王が生死にかかはる傷を負ふのですが、それをものりこえて勝利し、「征西府はほぼ九州を制圧した」のでありました。 

 

では、菊地武光も共感した懐良親王の「夢」とは何か。 

「先の帝(父、後醍醐天皇)は、帝の国のために戦おうとなされた。民も、帝の国のためには死ぬものだ、と思召されておられた。民あっての国だということを忘れられたために、世はこれほど乱れた。民のためになす闘いだということを、われらは忘れまいぞ」

 

まあ、これは著者の願ひが込められた言葉だとはおもひますが、このことはあらゆる歴史を貫いて有効なる夢であり、歴史の願ひではないかと思はざるを得ません。 

また、この間、『史料総攬』 で目についたことをつまみ上げてみたいと思ひます。

 

正平十年(一三五五年)八月二十日 宗良親王、諏訪矢島及ビ仁科一族ヲ率ヰテ、信濃桔梗原二北黨小笠原長亮ヲ攻メ給フ(園太暦、李花集) ─ この桔梗原は、《中仙道を歩く》 で訪ねたところでした(註)。 

正平十一年(一三五六年)三月廿五日 北朝關白二條良基、菟玖波集ヲ撰ス 

正平十三年(一三五八年)四月三十日 北朝前權大納言征夷代將軍正二位足利尊氏薨ず 

正平十三年(一三五八年)八月廿二日 義詮ノ男 義滿 生まる 

正平十三年(一三五八年)十月十日 南朝左兵衞佐新田義興、武藏矢口渡ニ自殺ス 

─ いづれ、これらの物語も描かれるのではないでせうか。 

 

註・・以下、『歴史紀行 三五 中仙道を歩く(十九・後編) 下諏訪宿~贄川宿  二〇一四年九月廿四日~廿五日)』 からの拔粹。 

──ところで、(宗良)親王は、ここ(大河原)を據點として「近隣諸国に出向き、足利方の敵とたびたび戦闘をまじえられ、ほとんど席の暖まるいとまもないほどであった。しかしながら正平十年(一三五五年)八月、信濃塩尻に近い桔梗ヶ原において小笠原長亮の軍と戦いに大敗されてから後は、大河原にこもってもっぱら守勢をたもつことになったのである」。桔梗ヶ原の戰ひはよほどこたへたとみえます。 

『史料綜覽 卷六』によれば、「八月二十日、宗良親王諏訪祝矢島及ビ仁科一族ヲ率ヰテ、信濃桔梗原ニ北黨小笠原長亮ヲ攻メ給フ」とあつて、勝敗には觸れてゐません。『園太暦』といふ、當時の貴族の日記では、「今日聞。駒牽依信州合戦。不及沙汰上之由。馬所注進到來云々。妙法院宮(宗良親王)爲大將軍被合戦。周防(諏訪)竝仁科合力。以外也。仍國中騒動」とあつて、むしろ、この戰ひのために、「駒牽」が延期になつたことのはうが強調されてゐるやうのさへ見受けられます。『續史愚抄』では、もつとあからさまに、「八月十六日己巳。駒牽延引。依信乃合戦馬抑留故云」と端的な記述です(補注四)。誰も、親王の心中を察しようとするものがゐなかつたのでせうか。こたえたのは、戰闘に負けたからではなく、背後にある南朝側の無理解と無關心にあつたといへるかも知れません。だからでせう、宗良親王は、それからは大河原を出ることがなかつたやうなのです。 

以後、元中二年(一三八五年)に亡くなるまで、といつてもその亡くなつた年月日もその場所も正確にはわかつてゐないんです。だからこそ何か驅り立てるものがありますね。 

宗良親王が、『新葉和歌集』を編まれたことは有名ですが、ぼくの手元には、『李花集』があります。これは、親王が、「延元元年(一三三年)以来三十余年間、各地で多忙な軍務につとめるかたわら、お作りになったみずからの和歌集」です。これは、「親王の文才を知りうるばかりでなく、またその詞書(ことばがき)によって、南朝の歴史資料としても重要な文献である」といはれてゐます。例へば・・・

 

      信濃國伊那の山里にしはしはすみ侍しに 雪いみしうふりつもりて道行ふりのたよりもたえはてにしかば 

希にまつ都のつてもたえねとや木曾のみさかを雪埋む也 

      信濃國伊那と申山里にとしへて住侍しかは 今はいつかたの音信もたえはてて 同世にありともきかれはやなとおほえし比よみ侍ける 

我を世にありやとはゝしなのなるいなとこたへよ嶺の松風

 

どうです、親王の孤獨を感じていただけたでせうか。感じられなければ、大河原に行くしかないですね。 

 

今日の寫眞・・「群書類従 特別重要典籍集 元版復刻」の 『李花集』。