四月十一日(水)癸酉(舊二月廿六日) 晴、強風

 

今日の讀書・・今日も 『破軍の星』 を讀みつづけながら、讀んだ内容に即したところまで、『史料綜覽 卷六 南北朝時代之一』 を通讀しました。 

 

建武二年(一三三五年)十二月廿二日 北畠顯家が「義良親王ヲ奉ジテ陸奧ヲ發」し、「遂ニ尊氏ヲ追ヒテ西上」したはいいのですが、その早いこと、まさに飛ぶやうな速さでした。 

翌、延元元年(一三三六年)正月十三日 には、「五万の全軍で、親王も推戴して」、近江(愛知河)に到着。これには、尊氏も直義も驚きを隠せませんでした。このへんの著者の筆は冴え渡つてをりますね。

 

同年正月十六日 「新田義貞、北畠顯家、圓城寺ヲ攻メテ、之ヲ破り」、義貞は、「凶徒ヲ追ヒテ、京都ニ至ル」。 

同年正月廿七日 「義貞等、尊氏ト賀茂河原ニ戰ヒ、・・・尊氏、丹波ニ走ル」。 

かうして、尊氏軍は大敗を喫し、九州へと落ち延びて行きました。

 

一段落した顕家は再び任國の陸奥に赴き、義貞は足利軍を追ふべく「西國に發向」して行きます。 

同年三月十日 「義良親王ニ元服ヲ加ヘ、三品ニ叙シ、陸奧太守ニ任ジ、北畠顯家ト共ニ任國ニ赴カシメ、又、義貞ヲシテ、西國ニ發向セシム」。 

 

ところが、陸奥に歸還した顯家が耳にした情報は信じがたいものでした。楠木正成が自刃し、つづけて名和長年までが討ち死にしたといふのです。 

足利尊氏は九州に退いてから二か月で反、數十萬の兵力を糾合して、都にとつて歸ることができたわけで、いかに武士の心をつかんでゐたかが知れるといふものです。 

同年五月十八日 「尊氏、直義、海陸竝ビ進ム、是日、直義、備中福山ヲ攻メテ、之ヲ陷ル、義貞、播磨ヨリ退去ス」。 

同年五月廿五日 「尊氏、直義、進ミテ攝津ニ至ル、是日、義貞、正成、逆ヘテ兵庫湊川ニ戰フ、正成之ニ死ス、義貞、京都ニ退ク」。 

これは當然、新田義貞の不徹底が責められるべきでせうが、正成は義貞を逃がすための死であつたのかも知れません。

 

同年五月廿九日 「是日、直義、入京ス」。もちろん戰ひは終はつたわけではありません。 

同年六月三十日 「行在ノ兵、大擧シテ京都ヲ攻ム、名和長年之ニ死ス」。名和長年は後醍醐天皇の隠岐脱出を助けた、弓術の達人。どのやうな腕なのか調べてみたいですね。 

 

北畠顯家は、陸奧守として二年間しか在任してをらず、それで上京、大いなる戰ひの後の心境は、陸奧をいかに治めるかであつて、新たに上京することができるのでせうか?