四月十六日(月)戊寅(舊三月朔日・朔) 曇り

 

北方謙三著 『破軍の星』(註一) 讀了。じつくり、ゆつくり、噛みしめつつ、史料にもあたりながら讀んだので、南北朝の歴史の勉強になつたとともに、著者の歴史觀のまつとうさに、感激もいたしました。 

二十一歳で「夢」に殉じた顯家が、死地に向かふにあたつて後醍醐天皇に「諫奏文」を屆けさすところなんか、悲劇のヒーローといつたところでせうか。義良親王を奉じての陸奧下向であり、父が、のちに 『神皇正統記』 を書いた北畠親房ですから、彼自身も南朝に組みせざるをえなかつたわけですが、眞情としては、武士に近かつたやうに思ひます。 

『史料綜覽 卷六 南北朝時代之一』 によると、「尊氏、將士ノ軍功ヲ褒ス」、といふ記録が頻出してゐるやうに、尊氏は武士たちのこころをつかんでをりました。

 

それに對する後醍醐天皇はじめ取り卷きの廷臣といふか、佞臣らの無知無策には怒りをおぼえるほどでしたが、そこが親房の子でせうね、陸奧に新天地を築かうといふ、「藤原四代の末裔を暗示する安家一族」の期待と夢に惹かれながらも、殉じるしかなかつたのであります。 

『武王の門』 と 『破軍の星』 で共通するのは、主人公が、九州獨立であり、陸奧獨立の夢を抱いてその夢に向かつて殉じてゐることでせう。 

「陸奧は、昔は朝廷からも離れた、別の国であった。それを、朝廷の軍勢が踏みにじり、自国に加えたのだ」。それを、「民が民らしく生きる場所」にしたいといふ在地の一族に誘はれて、顯家は最期まで心搖らぎながら進んでいくのです。 

現代人には抱こうとしても持てない「夢」でせうが、さうだ、井上ひさしのさんの 『吉里吉里人』(註二) なんか、獨立國を作ろうといふ話でしたよね! 「奥州藤原氏が隠匿した黄金」が出てくるところも共通してますね。さうか。 

 

おしまひに、顯家最期の場面を見てみませう。『太平記』 は劇的に描いてゐますけれど、『史料綜覽 卷六』 では簡潔です。 

 

南朝延元三年・北朝暦應元年(一三三八年)戊寅正月二日 顯家、義良親王ヲ奉ジ、鎌倉ヲ發シテ西上ス、直義、高師冬等ヲ遣シテ之ヲ拒ガシム、尋デ、顯家、美濃靑野原ニ戰ヒ、轉ジテ伊勢ニ入ル 

同年二月廿一日 顯家、北軍ト伊勢ニ戦ヒ、伊賀ヲ經テ、是日、南都ニ入ル、北軍逆ヘテ之ヲ撃ツ、尋デ、顯家敗レテ河内ニ走リ、義良親王、吉野ニ逃レ給フ 

同年五月廿二日 顯家、高師直ト和泉堺浦、及ビ石津ニ戰ヒテ、之ニ死ス 

 

これが、父北畠親房の 『神皇正統記』 になると 

 

「またのとし戊寅の春二月、鎭守府の大將軍顯家、また親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の國々ことごとくたいらきぬ。伊勢伊賀を經て大和に入、奈良の京になむつきにけり。それより所々の合戰あまた度々たがひに勝負はべりしに、同五月和泉の國にてのたゝかひに時やいたらざりけむ、忠孝の道ここに極りはべりにき。苔の下にもうづもれぬものとては、たゞいたづらに名をのみぞとゞめしこゝろうき世にもはべる」 

 

註一・・『破軍の星』 建武の新政で後醍醐天皇により陸奥守に任じられた北畠顕家は、十六歳の若さで奥州に下向、政治機構を整え、住民を掌握し、見事な成果をあげた。また、足利尊氏の反逆に際し、東海道を進撃、尊氏を敗走させる。しかし、勢力を回復した足利方の豪族に叛かれ苦境に立ち、さらに吉野へ逃れた後醍醐帝の命で、尊氏追討の軍を再び起こすが…。一瞬の閃光のように輝いた若き貴公子の短い、力強い生涯。柴田錬三郎賞受賞作。 

 

註二・・『吉里吉里人』(きりきりじん) ある日、三文小説家の古橋は編集者・佐藤を伴い、奥州藤原氏が隠匿した黄金に詳しい人物に取材するために夜行急行列車『十和田3号』に乗車した。ところが、一ノ関駅手前にて不思議な出来事が起きたのだ。列車は公用語・吉里吉里語、通貨単位・「イエン」を導入した人口約4200人の国家・吉里吉里国に入国。日本政府から数々の悪政を受けた吉里吉里村の、村を挙げての独立騒動である。古橋と佐藤はこの騒動に否応無く巻き込まれてしまう。

 

つづけて、北方版「南北朝」の三册目、『陽炎の旗』 にいきたいところですが、ここで、『史料綜覽 卷六』 にたびたび登場する光厳天皇に關する、『地獄を二度も見た天皇 光嚴院』 を讀んでみたく思ひます。 

 

今日の寫眞・・古本市で見つけた、『北畠顯家筆蹟』 複製(?)。