四月廿一日(土)癸未(舊三月六日) 晴、暑い

 

昨日は、『地獄を二度も見た天皇 光厳院』 と 『史料綜覽』 とを照らし合はせて讀みながら、光嚴院の人生をたどつてみましたが、すつきりとまとめられずに苦勞しました。ぼくの理解が十分ではないためでせうが、體から汗がにじみ出る思ひでした。 

それで今日は氣分をかへて、開催中の神保町と五反田の古書會館へ、散歩がてら出かけてきました。

 

頭にあつたのは、光嚴天皇が花園院から「連句」をたたき込まれたといふことでした。「連歌」(註一)は聞いたことがありますが、「連句」といふのは知りませんでしたので、關連本があればいいなと探したのですが、五反田で見つけました。 

ただ、よく見たら、連句ではなく連歌でした。齋藤義光著『中世連歌の研究』(有精堂) といふ題の研究書で、正直難しさうで、ちんぷんかんぷん! やはり專門家のお話を聞かなければ無理かなと少し落ち込んでしまひました。まあ、三〇〇圓でしたから、無駄になつても仕方はありませんが。 

ためしに調べてみましたが、以下の「註一」を讀んでもまつたくわかりません。何を言つてゐるのでせうか? 次に調べた、〈日本連句協会〉の説明のはうがまだわかりやすい(註二)。 

 

註一・・連句(れんく)とは、歴史的には、俳諧の連歌のことであった。連歌に対して俳諧という趣旨の精神とその内容、また俗語をも使用する形式で、それが、連歌の形式を踏襲した為に「俳諧の連歌」と称せられた。連歌とは複数の吟者が吟ずる短句で、前句に後句を付け合いし続ける形式の文芸をいう。付け合いする句々は独立性のあるものが原則である。しかもその隣接二句が調和することが特徴である。座の文芸の所以である。 

俳諧は江戸時代、松尾芭蕉を始め多くの秀吟者を輩出し、庶民にも親近するため、連歌より好まれ、文芸の主流を為した。のちに、川柳と発句(のち俳句)の、一句形式の分離と流行を誕生せしめたので、狭義には俳諧より一句形式を除いたものは連句と呼称される。この用語を、明治37年に連歌や俳句と区別するため高浜虚子が提唱してから定着したとする説もあるが、「連句」の名称はしかし随分以前から巷間あった。 

形としては連歌の様式を踏襲して、五七五の句の後に七七の句を、さらに五七五・・・と交互に付けていき、三十六句(歌仙)、五十句(五十韻)、百句(百韻)等よりならしめ、総数の違いで数十種に別して名称がある。 

 

(註二)・・〈日本連句協会〉の説明─連句とは、最初の(五・七・五を長句という)に対して、その情景から次の脇句(七・七を短句という) を想像する連想ごっこです。それは幼い頃の尻取り遊びのように、出来るだけ素早く応じて、前の句とは関連があるが、しかも全く違う内容の句がよいのです。そして、何人かで、長句と短句を交互に繰り返すわけ です。この問答風の文芸は、六百年も前から伝わってくるうちに、いくつかの約束事(式目)ができましたし、 形式も三十種類ほどあります。連句の楽しみの大部分をなすのは、連想飛躍によって思いもかけない別世界が繰り広げられることです。芭蕉も「俳諧は三十六歩の歩みなり、一歩もしりぞくこと無し」と述べていますが、歌仙三十六句を足 取りにたとえ、後へ戻ることなく前と同じ情景を避けて、新しい局面を展くように前進しなさいと教えています。