四月廿二日(日)甲申(舊二月七日) 

 

昨夜おそくなつて、『二度地獄を見た天皇 光嚴天皇』 を讀み終へましたが、光嚴天皇が味はつた第二の地獄のあたりは、もう一氣讀みでした。今までもこのへんの歴史は讀んでゐたはづなんですが、光嚴天皇の晩年なんて、關心もいだいてゐませんでした。 

そもそも、晩年の光嚴天皇のことは、他の歴史書ではたいがい無視されるか飛ばされてしまつてゐるので、とくに賀名生(あなふ)に幽閉されたことには興味が湧きました(註)。しかもそれが、足利尊氏の裏切りのためだつたのであります。 

 

これまで、弟の光明天皇が践祚し、光嚴院は上皇として院政をとりしきり、「治天の君」として、思ふままに振る舞ひはじめたといふところまで讀んできたわけでしたが、ここで、室町幕府の内紛が生じ、「神應の擾乱」(觀應元・一三五〇~同三・一三五二)といふのですけれど、弟の直義と相爭ふ事態のなかで、足利尊氏が天皇に相談もなしに、南朝に降參してしまふのです。 

喜んだのは南朝方、後醍醐天皇亡き後を繼いだ後村上天皇でした。名目は、南北朝の和睦でしたが、第一の地獄と同樣、北朝は廢され、光嚴院は、弟の光明院、息子の崇光院、皇太子の直仁親王とともに、賀名生に遷され、幽閉の憂き身となつてしまつたのであります。

 

光嚴院は、皇位繼承者について、「治天の君」としての權限が無視されたことを知り、そこで出家をはたします。近江番場宿での凄惨な地獄場面を見、夢窓疎石に歸依してゐながらも拒んでゐた出家を、今さらにはたすとは、ぼくにはちよいと疑問の殘る出家でした。 

光嚴院はのちに河内の金剛寺、さらに洛南の伏見、嵯峨小倉に御所を遷し、最期は、「丹波の常照寺で、貞治三年(一三六四)七月七日御年五二歳で崩御した」のでありました(註二)。 

 

註一・・賀名生行宮(あのうのあんぐう)とは、大和国吉野郡(現在の奈良県五條市西吉野村賀名生)にあった南朝の行宮。 

正平3/貞和4年(1348年)8月、高師直率いる室町幕府軍に吉野行宮を襲われた後村上天皇が賀名生に逃れて行宮を定める。正平7年(1352年)の正平一統による北朝の一時崩壊を受けて、後村上天皇は同年2月京都を目指して出立するが、京都に入京することが出来ないまま5月に捕虜とした北朝の3人の上皇(光厳・光明・崇光)と廃太子(直仁親王)を連行して賀名生に戻った。 

 

註二・・光厳天皇(こうごんてんのう) 13131364 諱(いみな)は量仁(かずひと)。南北朝時代、北朝第1代天皇(在位1331-33)。後伏見天皇の第1皇子。 

後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた215年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。 

北朝が一時南朝に屈した「正平の一統」のあとは出家し、晩年は丹波常照寺で禅に精進した。貞治3=正平1977日死去。52歳。墓所は山国陵(京都府京北町) 

 

讀了後、森茂暁著 『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』(講談社選書メチエ) の「第三章 南朝の時代」、南北朝立の發端から、南北朝の合體までの經緯を讀んでみて、やはり光嚴天皇の無念さを無視したといふか、飛ばした記述でしたが、通史として、南北朝の時代を再確認することができました。 

これで、北方版南北朝の三冊目、『陽炎の旗』を読む準備ができたのですが、頭の柔軟體操のついでに、目にとまつた、高橋克彦著『南朝迷路』を讀みはじめてしまひました。 

後醍醐天皇が隠したとされる秘宝をめぐつての歴史ミステリーですが、途中まできて、以前に讀んだかなと、ふと思ひました。