四月廿七日(金)己丑(舊三月十二日) 曇り

 

今日はお散歩日、神保町へ行つてまゐりました。東京古書會館で、今日と明日、ぐろりや會の古書市が開かれるからです。この會では本棚が縱に竝べられるので、いつもと勝手が違ふのですが、このはうが大勢の人の流れが良くなるからかも知れません。 

それで、掘り出しものではありませんが、たまたま手の取つたよれよれの和綴じ本が氣になり、一度は手放したのですが、再度見たらまだあつたので、一應考へはしましたが、買ふことにしました。『梅園叢書』 といふ人生訓のやうな本です。ぼくは著者については、岩波文庫によつて知る程度ですが、たいへん立派な人物のやうであります(註)。 

内容からして、「酒食欲の誡」とか、「生前死後の理」とか、「後世を願ふに心得違(ひ)多き事」とか、「書をよむハ身を修るのためといふ説」とか、身近なといふか切實な話題をどのやうに料理してゐるのかに興味がわきます。

 

また、丸谷才一さん、大岡信さん、井上ひさしさん、高橋治さんらの對談集、『とくとく歌仙』(文藝春秋) が目つきました。錚々たるメンバーであるとともに、「まず、初心の方々のために」とはじまり、「連句」についてもふれてゐたからです。が、そのあとで、東京堂書店に寄つたら、影印本の 『連歌作品集』(新典社) があつて、これは教科書として編集されたもののやうですが、連句や連歌の理解には役立ちさうなので、新本でしたが購入しました。 

『連歌作品集』 には、年代順に、最も古いのが「紫野千句」といつて、延文元年(一三五六年)~応安三年(一三七〇年)の成立作品から、天正十年(一五八二年)の「明智光秀張行百韻」まで、七作品が収められてゐます。 

「連歌道を興隆」させた二條良基が一三二〇年生まれですから、ちやうど時代が重なりますし、二番目の 「石山百韻」(一三八五年) には二條良基も參加してゐますね。

 

そこで、復習がてら、『史料綜覽 卷五 鎌倉時代之二』 を開いたら、たまたま、花園上皇とまだ九歳の光嚴天皇(量仁親王)が目にとまりました。 

 

元亨二年(一三二二年)正月廿九日 花園上皇、量仁親王ノ爲ニ、連句御會ヲ行ハセラル 

同二月十三日 花園上皇御所ニ於テ、詩御會ヲ行ハセラル、尋デ、連句御會ヲ行ハセラル 

同二月三十日 量仁親王、連句御會ヲ行ハセラル 

同三月十四日 花園上皇ノ御所ニ於テ、和歌御會ヲ行ハセラル 

 

どうでせう。連句だ、詩だ、和歌だと、まあ勢揃ひです。詩は漢詩でせうし、和歌は歌會でせう。が、やはり「連句」にこだはつてしまひますね。よくわからんです。で、『連歌作品集』 と 『とくとく歌仙』 とを學ぼうとは思ふのですが、自信はありません。

 

註・・三浦 梅園(みうら ばいえん) 享保882日(172391日) - 寛政元年314日(178949日) 江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。名は晋(すすむ)。号は梅園。豊後の国東(くにさき)郡富永村(現、大分県東国東郡安岐町大字富清)で名望家の医者の家に生まれ、生涯、医を業とした。かたわら家塾を開き、常時20人たらずの寄宿生がいた。その一生はなんの波乱もなく、伊勢参りに1度、長崎へ2度、旅行したのみ、杵築侯その他から出仕の招聘を受けたのもすべて辞退し、郷里を離れたことは一度もない。人となりは温厚篤実で安分知足をモットーとし豊後聖人の称があった。

 

今日の寫眞・・『梅園叢書』。『連歌作品集』 と 『とくとく歌仙』。