四月廿九日(日)辛卯(舊三月十四日) 

 

二十六日に讀みはじめた、北方版「南北朝」の四册目、『悪党の裔(上)』 を昨夜讀み終へ、すぐに 『悪党の裔(下)』 に入りました。面白い。赤松圓心を主人公にしたのがいいですね。北方謙三好みのストイックな生き樣がなんともいい。 

詳しくは言へないし、説明したところで讀んでみないことには、主人公、すなはち著者の息づかいを感じるのは無理でせう。それで、例の、『史料綜覽』 ではどんなふうに記述されてゐるのか、どうせならと思ひ、後醍醐天皇が践祚した年から通讀してみました。 

 

文保二年(一三一八年)二月廿六日 (後醍醐天皇)御践祚アラセラレル 

 

と、このやうにして(大覺寺統の)後醍醐天皇の御代がはじまるのですが、このときすでに三十歳です。ところが、讀めども讀めども後醍醐天皇の名前が出てきません。今上天皇の名はタブーですから記述されてゐなくてもいいんですが、その存在が感じられないんです。 

出てくるのは、(持明院統の)花園上皇と、その兄の後伏見上皇の息子、量仁親王(のちの光嚴天皇)ばかり。それが、正中元年(一三二四年)九月まで、本の頁で八十四頁もつづいたのです。 

さう、「正中の變」で、倒幕計畫が發覺されるまで約六年半の間です。後醍醐天皇は、存在がさとられないやうに、倒幕計畫が成し遂げられるやうに、じつと息を凝らしてゐたのでありませうか。ですから、途中から讀み出した場合、この時代、だれが天皇なのか、文面からではわからないと言つても言ひ過ぎではありません。そもそも、どうして倒幕したかつたのか、これらの史料からではうかがひ知ることができません。 

そのかはり、花園天皇と量仁親王は大活躍です。もつとも、記述のもとは、『花園院御記』 といふ「日記」ですから、「記録」しておくことがいかに大事かを敎へられます。

 

量仁親王がどのやうな宮廷生活をしてゐたか、「雑伎ヲ演ジ」、琵琶や笛を學び、闘鶏を樂しんだりしながらも、連句御會に出たり、自ら催したりと、けつこう忙しさうです。花園上皇が手をかけて敎育したので、その記録もしつかりとしてゐます。 

さて、花園上皇ご自身のことですが、「御歌合」や「連句御會」、「御連歌五十韻」をしばしば行ふことはさておき、ぼくが注目したのは、その讀んでゐる書物の多樣さです。いや、書物を讀むだけではありません。講師を招いて敎へを受けてゐるのです。 

 

花園上皇、悉曇字記ヲ僧正慈嚴ニ受ケ給フ(悉曇・しつたん=梵字?) 

花園上皇、貞觀政要談義ヲ行ハセラル 

花園上皇、資治通鑑ヲ御覽アラセラル 

 

あとは、拾ひ出した本を羅列してみます。─ 寛平御記、大日經疏、續日本紀、後深草天皇宸記、日本後紀、毛詩、止觀、續日本後紀、禮記月令(?)、尚書、三代實録、本朝世紀、野府記、宇治左府記、碧巌録、文選、三善淸行ノ革命勘文、論語、山槐記、三國志、易疏 

とまあ、中にはどんな書物なのかわからないものもありますが、六國史はじめ當時の貴族の記録(日記)を讀んでゐるのには興味がわきました。 

ところで、肝心の赤松圓心と護良親王のことは明日書くことにします。 

 

今日の寫眞・・昨日歸宅したところ、ご近所の方の愛犬、モモちやんがよちよち歩いてゐました。十七歳となり、もう最晩年といつてよいのでせう。飼ひ主も覺悟をされてゐるやうですが、まだまだ可愛いモモちやんです。

四年前の六月に撮つたラムとの寫眞があつたので、再び載せておきます。ラムはこの一週間後に、ぼくの胸のなかで息を引きとりました。