五月十三日(日)乙巳(舊三月廿八日) 曇天のち雨

 

今日はぼくらの結婚記念日。ぼくにとつては、病氣をかかへながらも、妻がそばにゐてくれて、感謝としか言へない四十五年間でありました。思ひ出は、思ひ出すのもいやなくらゐありますが、それより、彼女との出會ひは、もう、神さまのお導きとしか言へず、あとになつて考へてみると、その出會ひのために、それまでのぼくの病氣と入院生活、落第したおかげでなかまははづれになつたこと、そして近所の敎會へ行きはじめたことなどがあつたのだと思ひいたりました。 

そのうへ、まだ學生だつたぼくが、西宮の大學に編入學することになつたために、先の見通しもないまま、急遽結婚することにしました。東京にゐたままでしたら、決して結婚することはなかつたでありませう。これだけは断言できます。これもお導きでしたでせうか。

 

まさか東京を離れるなんて、思ひもしませんでしたが、兵庫縣の西宮市の二年間を皮切りに、靜岡縣淸水市で六年、同縣小笠郡濱岡町で五年、横濱市緑區で八年、靜岡縣賀茂郡南伊豆町では山暮し十七年、そしてふたたび生まれ故郷の葛飾に歸つてきました。 

その間約四十年の御無沙汰でした。町内には、移り住んできた人たちが多くなり、さながら浦島太郎状態でした。が、日がたつに從つて、親しくもなり、今や妻が近所のご高齢者を見回つてゐます。人間關係的に言へば、それまでの仕事關係の人々のつきあひを考へれば屁の河童、樂なものよ、と妻が言つてをります。それででせうか、ノラネコのめんどうまでみるやうになりました。

 

ぼくなんか、思ひおこしてみると、いやな事はしないですむ生活をさせていただきました。妻のご理解があればこそであります。この點だけをとつても感謝なしにはゐられません。 

さういへば、明日、西宮から神田君が上京するので、銀座で待ち合はせてゐるのでした。神田君とは、靑學自動車部で借りたトラックで、東京から西宮に一緒に引つ越し、「都上り」した日のことなどが思ひ出されてなりません。 

 

また、今日は母の日でした。だからではないですが、今日ちよつとほめてあげました。最近の母は會話がだんだんむづかしくなつてきましたが、顔色はよく、ふつくらとしてしわが目立たなくなりました。それで、顔がつやつや、若々しくなつたね、と言つたら、にこにこしてゐました。 

母といへば、南伊豆にゐた時に、妻の兩親を手元に引き取り、最期を看取りました。はたまた葛飾に歸つてからはぼくの父を看取り、殘すは母ひとり。それでパーフェクト。 

「お母さんをおいて先に逝かないでね」が、最近の妻のくちぐせです。 

 

午前中は 『枕草子のたくらみ』 を讀みすすみ、午後は横になつて、目についた文庫本の山田風太郎著 『婆沙羅』(講談社文庫) を讀もうとしたら、眠くて眠くて夕方まで寢てしまひました。 

十七年前に讀んでゐるのですが、はじめてのやう。南北朝時代を勉強したばかりなので、すこしは復習になるでせう。 

 

註・・山田風太郎著 『婆沙羅』 倉幕府打倒に失敗し、隠岐へ流される後醍醐天皇、お人よしで涙もろい足利尊氏、冷徹な合理主義者足利直義、好色悪逆に生きる高ノ師直、師泰兄弟…。百獣横行の乱世を、綺羅をかざり、放埓狼藉をきわめ、したたかに、自在に生きぬいた、稀代の婆沙羅大名・佐々木道誉の生涯を描く、絢爛妖美の時代絵巻。

 

今日の寫眞・・妻と出會つたころ!