六月七日(木)庚午(舊四月廿四日・下弦 曇りのち晴

 

『枕草子』 の諸本の異同の問題はさておき、だいぶ愚痴つてしまひましたが、でも、この「第8章 政変の中で」は勉強になりました。 

『枕草子』 は、中宮定子のサロンを覆ふ暗い影には一切觸れず、どこまでも明るい春をむかへてゐる樣子しか描いてゐません。ところが、現實には、大黒柱の道隆が亡くなり、長徳二年(九九六年)一月には、伊周と隆家が、花山法皇に矢を射かけるといふ「花山院事件」(長德の政變)をおこし、二人は大宰府と出雲に流されてしまふわけで、凋落の一途をたどる中關白家にとつては致命的な出來事だつたのであります。最も苦しみ嘆いたのは定子さんその人であつたと言つていいでせう。 

そのとき、では、淸少納言はどうだつたのか、それに答へてくれたのが本章の章段でした。これらの章段は、順序よく讀んでゐたのでは理解できない、歴史のひとコマの眞實を敎へてくれました。

 

山本淳子先生は、まづ、淸少納言と親しかつた、といふか、たびたび言ひ寄つてきたりしてゐた藤原齊信(ただのぶ)が、例の事件の後、淸少納言に話があると言つてきたとき、一人では會はないようにして、面會を拒んだ場面からはじめてゐます。なぜ會ふことを避けたのか。 

それは、齊信が、伊周と隆家が花山法皇へ矢を射つたことを、中關白家にとつては政敵たる道長に傳へて、それで事件となり、彼は「中關白家を売った論功行賞」として、昇進までしてゐるからなのでした。つまり、淸少納言は、そのやうな齊信や、さらに道長と懇意だつた源經房や源濟政とも親しくしてゐたので、定子に仕へる他の女房たちから疑はれ、いたたまれなくなつた彼女はながらく里(自宅)へ引きこもります。 

 

以上のことを踏まへて、一三八段、一六六段、八六段、八七段、八八段を讀むと、事情がよくわかります。一三八段「故殿の御ために、月ごとの十日」と、一六六段「宰相中將齊信、宣方の中將と」と、八六段「頭中將のそぞろなるそら言にて」では、淸少納言に言ひ寄るほど仲の良い齊信のことども。 

八七段「返る年の二月二十五日に」が、事件のことで、どんな話があつたのか、言ひわけをしたかつたのか、齊信が會ひたいといふのを避ける淸少納言のこと。 

八八段「里にまかでたるに」は、里に退出してゐる淸少納言の心境が描かれてゐます。 

さらに、二五五段「御前に人々あまた、物仰せらるるついでなどに」は、里にこもつてゐる淸少納言に、定子さんから、「とくまゐれ(早く參上せよ)」とのお言葉とともに、贈り物の「紙」がとどいたこと。 

 

それと、一四六段「故殿などおはしまさで、世ノ中に事出で來」は、讀んでゐて胸が熱くなりました。その冒頭で、唯一淸少納言は、「長德の政變」に觸れてゐるのです。 

「故殿(關白道隆殿)などおはしまさで、世ノ中に事(事件が)出で來、物さわがしくなりて、宮(中宮定子)またうち(宮中の帝のところ)にも入らせたまはず、小二條といふ所におはしますに、何ともなくうたて(嫌なことが)ありしかば、(私は)久しう里(自宅)にゐたり。」

 

周りから疑はれ、ゐる場所を失つて退出してしまつた淸少納言でしたけれど、なかには同情して訪ねる人もをりました。その一人が、源經房です。彼は、道長の第二夫人の明子の弟でした。當然道長側の人とみられてゐますが、彼の父はご存じ、源高明でありまして、「安和の變」で大宰府に左遷させられた人物です。その父の怨念を忘れるわけはありません。淸少納言を慰め勵ます樣子が、一四六段にみられます。

 

と、ひきつづいて、一四六段では、定子さんからの心のこもつた手紙をいただいて感激し、再び參上すると、そこにはかはらぬ明るい定子さんが迎へてくれて、淸少納言はあらためて定子さんに惚れこむのでした。この章段は、ぼくは感激なしには讀めませんでした。

 

最後に、二五五段で、淸少納言が里にこもつてゐる間に、紙をいただいたことが記されてゐますが、この時に 『枕草子』 が書きはじめられ、のちに書き加へられていくバージョンにたいして、「原『枕草子』」であると、淳子先生のご指摘がありました。 

 

ところで、補足ですが、二五五段には有名な言葉がありますので、原文を寫しておきます。 

「世の中のはらだたしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、いづちもいづちも行きうせなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清らなる、よき筆、白き色紙、檀紙など得つれば、かくても暫時ありぬべかりけりとなん覺え侍る」 

どうです。このやうな氣分がわかりますでせうか。ぼくにはよくよくわかります。二五五段(三巻本では、二五九段)の冒頭にありますから、現代語譯ででも讀まれたら、人生が少しは變るかも知れません。 

 

以上、今日も、三種類のくづし字を讀みましたが、どれが難しいかといふよりも、それぞれ出だしは難しく感じるもので、讀みだしてしまへば、それぞれの特徴もわかつてきて、面白く讀めるやうになりました。内容にもよりますが、活字で讀んだのとは一味もふた味も違ふところが、妙味があるとでもいふのでありませうか、くづし字讀みの醍醐味でありますね。