六月十四日(木)丁丑(舊五月朔日・朔) 曇天

 

今日も讀書。まづ、『筑波問答』 を讀み終へました。一應連歌の勉強になつたと言つておきませう。ただ、くづし字で讀んだからではありませんが、これは活字でも、現代語譯で讀んでもむずかしさはかはらないと思ひます。學術書や論文なんかでも同じですが、讀めたのと理解できたのとは違ふといふことを改めて敎へられました。

 

それから、「竹齋」のつづきもの、繪入 竹齋狂哥物語 中』 を讀み終らせました。二八頁をまる二日で讀み通せたのはいいのですが、内容がつまらないのには忍耐を要しました。つづく 繪入 竹齋狂哥物語 下』 は副題に、「竹齋都へ上る事 付道中紀行」とあるので、期待がもてさうです。 

 

さて、『枕草子』 ですが、ほそぼそと讀み進んでをります。山本淳子著 『枕草子のたくらみ』 の「第一〇章 復活」では、取り上げられてゐる本文は、第七四段(能因本では第八〇段)「職の御曹司におはしますころ、木立などの」のみ。 

の政變で出家した定子さんでしたが、遠く離れることを許さない一條天皇によつて、内裏とは道ひとつへだてた、「職の御曹司」に住まはせられます。そこは梅壷の三分の一にもみたないさでしたが、いつでも會へる場所でありまして、二人の關係が「復活」したといふことでせう。通りに公卿や殿上人が通るたびに大騒ぎ、女房たちにとつても興味のつきないところであつたやうです。 

事實、女房たちが、「住めば都」といはんばかりにはしやいだり、元氣に樂しんでゐるさまが 『枕草子』 のこの章段には描かれてゐます。つまり、政變があつても、それで中宮の境遇がかはつても、淸少納言をはじめとする女房たちの中宮定子にたいする思ひは變はることなく、「昔の後宮女房は良かった」、とのちの貴族が思ふやうな新しい文化・風流を保ちつづけたのでありました。

 

ここで、はつとさせられたのは、淳子先生のつぎの言葉です。 

「桐壺の更衣が、そのキサキとしての適格性を欠いていたにもかかわらず帝から溺愛され、世間の非難を浴びた挙げ句に光源氏を遺して死んだ。私は、この更衣は定子を準拠としたものと考えている。定子が后復帰以後に歩んだ苦難の道と死に立脚し、結果的には悲劇に終わった一条天皇と定子の愛を見据えて、『源氏物語』 冒頭は描かれた。・・・言いたいのは、紫式部は一条天皇と定子の純愛事件を、同時代の社会が直面した問題として真正面からとらえた、だが淸少納言はそうしなかったということである」。 

さう、そこに 『枕草子のたくらみ』 が秘められてゐるといふことでせうか。先が樂しみです。 

 

今日の寫眞・・日ごとに近づき寄り添つてくるココ。昨日だめだつた頬ずりが今日はゆるしてくれる、といつたやうに、ノラだつた子猫との生活は時間がかかります。