六月十五日(金)戊寅(舊五月二日) 曇天のち雨

 

今日も 『枕草子』。山本淳子著 『枕草子のたくらみ』 の「第一一章 男たち」といふ、ちよつと興味深い内容でした。「女房は職場で手軽に男性と出会え、恋の機会にあふれた〈恋愛環境〉」にあつたやうで、淸少納言も例外でなく、多くの男から言ひ寄られたやうです。

 

はじめに取り上げられた章段は、七八段(能因本八六段)「頭中將のすずろろなる空言を聞きて」。淸少納言が十代の頃結婚し、のち破綻した「元夫」の橘則光(のりみつ)でしたが、淸少納言のすばらしい機知によつて、そのおかげで上司や同僚からほめられるといふ内容です。すでに別れてゐるとは言へ、淸少納言が「元夫」にはたした内助の功のやうな話です。

 

次は、八〇段(能因本八八段)「里にまかでたるに」。の政變で疑はれた淸少納言は里に身を隠してゐたのですが、藤原齊信が、淸少納言を道長側に引き抜かうと躍起になつてゐました。それでなほも執拗に淸少納言を探してゐた場面です。 

齊信が尋ねたのが、「元夫」の橘則光です。彼は知つてゐましたが、言ひさうになつたとき、机の上に置いてあつた若布(わかめ)をつかんでむしやむしや食つてごまかした、といふ話です。

 

つづいては、藤原行成の登場、四七段(能因本五七段)「職の御曹司の西面の立蔀のもとにて」です。淸少納言より六歳年下ですが、この「三蹟」の一人である行成を、淸少納言は實に好意的に描いてゐます。といふか、「零落した定子寄りの人物として」、さらに、彼の「人間的魅力を世に伝え」やうとしてゐると、淳子先生はおつしやいます。

 

そのつづきとして、第一三〇段(能因本一三九段)「頭辨の職にまゐり給ひて」。ひまつぶしの會話を通して、行成が定子の力強い味方であることを語つてゐます。「事実、行成は、定子の死後、その遺児である敦康親王の事務方長官に任命されて、親王を支え」てゐるのです。 

このやうに、『枕草子』 は、定子後宮のために書かれた作品であることが、より鮮明になつてまゐりました。 

 

讀書の旅(一)・・・ぼくの讀書の旅は、記憶にない幼いころからはじまつてゐたやうです。それを言してゐるのが、「ノートブック」といふおゑかき帳です。それには、赤胴鈴之助から、鉄腕アトム、ビリーパックに朱房の小天狗などといつたキャラクターの鉛筆畫が書き散らしてあつて、よくもまあ殘つてゐたなあといふのが、長じて發見したときの感想でした。 

これらはみな漫畫ですが、昭和三十三年(一九五八年)の冬、十一歳になつたころに發病して入院生活をはじめ、父が見舞ひのたびにもつてきてくれた古本が、本格的な讀書の開始だといつてもいいでせう。『十五少年漂流記』 などの冒険小説が主なものでしたが、すべてむさぼり讀んだものでした。 

ちやうどそのころです、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」が發賣開始され、その創刊から讀んだのを思ひ出します。小児病棟のベッドのわきの木製キャビネットのなかに、二、三十センチもの高さに積んであつたその束が記憶の片隅にのこつてゐます。 

 

註・・『週刊少年サンデー』は、小学館が発行する日本の週刊少年漫画雑誌。1959年(昭和34年)317日に、同年45日号として創刊。 

『週刊少年マガジン』は、講談社が発行する日本の週刊少年漫画雑誌。1959317日創刊。 

 

今日の寫眞・・『伝藤原行成筆 関戸本古今集』、わが「ノートブック」と、大好きだつたキャラクター。