六月廿四日(日)丁亥(舊五月十一日) 曇天のち晴

 

『枕草子』 を、角川文庫舊版の現代語譯で讀みはじめて四日。その上卷を讀みあげました。全一二九章段。ただ、氣になる 「淸少納言が仕へた中宮定子の後宮の記録」である日記的章段は、二〇段しかありませんでした。下卷のはうが多いと思はれますので、つづいて讀んでいきたいと思ひます。 

 

ところで、この二、三日、妻が忙しく出入りしてゐると思つたら、やはりノラネコのことでした。一緒に活動してゐるAさんとともに出かけたのは、昔は寶木塚町と言つてゐた寶町のアパートで一人暮らしをしてゐる老人のところでした。 

そのおぢいさん、自分では猫を三匹飼つてをり、その他に、やつてくるノラにエサをあげてゐたのださうですが、たまたまやつてきた一匹がおぢいさんのところで、子ネコを五匹生んでしまつたのださうです。しかも、何日もたたないうちに、家のそばに段ボール箱が置かれてゐて、それには生まれたばかりの子ネコが四匹、思はず家に入れたら、その母ネコまでもついてきて、たうとうどうしやうもなくなつて、救ひの手をさしのべてきたといふことでした。

 

妻たちは、A組家族とB組家族にわけ、まづ、はじめの五匹とその母ネコのA組を捕獲して、動物病院につれていき、母ネコには不妊手術を、子ネコにはエイズなどの査をしてワクチンなどを投與、我が家に連れ歸りました。それから、再びアパートにもどつて、B組の捨てネコ四匹を、やはり病院へつれていきました。 

ところが、その母ネコはその時には捕獲できず、一日おいて捕まえに行つたのですが、ぢいさんによると、一晩中鳴いてゐたさうです。いきなり我が子四匹を失つた母ネコの氣持ちを考へると、涙がでてしかたないと言つてをりました。 

が、今日、その母ネコも捕獲し、明日病院へつれて行くために、我が家の輕自動車のなかで靜かにしてゐるところです。A組家族は、病氣持ちではなく、ただ數匹がカゼをひいてゐるといふことです。Aさんがすべて引き受けてくれましたが、エサやり、クスリやり、顔やからだをきれいにしたりでてんてこ舞ひしてゐることでせう。

 

おぢいさんはお禮にと、お札を數枚さしだしたさうですが、生活保護を受けてゐる方からはいただけないと言つても、頑固にさしだすので、カツネコへの支援金といふことで受け取つたやうですが、それにしてもすべてAさんと妻のサイフから出てゐることです。 

葛飾區も東京都も、かういふ活動には目も向けてゐないやうです! それどころか、ノラネコのために使ふならといつて、八十過ぎのおぢいさんの生活保護費を減額しやしないでせうか。やりかねません! 

 

《東京散歩》〈コース番號25〉 つづき 

法明寺の參道をはさむやうにして、眞乘院、蓮光院、玄靜院、觀靜院といふ寺院なのか、法明寺の末寺なのかが密集してゐまして、さういへば、參道を出た道をそのまま進むと、そこには鬼子母神なのでした。「鬼子母神堂は法明寺の飛地境内にある堂」とありましたから、やはりみな末寺なのかも知れません。 

でも、コースはその境内を出たところをすぐに左折し、大鳥神社の脇を通り、都電の線路を三たび渡ります。すると、こんどは、御嶽山淸立院といふ、それこそ山の上にまします寺院。雑司ヶ谷の鎭守と言ひますから避けるわけにもいかず、どうにか山坂をのりこえると、そこは、なんてことはない、雑司ヶ谷靈園の南東にある出入り口でした。位置としては、先ほど訪ねたばかりの窪田空穂の墓地のそばでした。 

しかし、もう靈園に入るのはやめて、右に曲がつて坂をおりていきました。「雑司が谷舊宣敎師館」は、門のところからながめるにとどめ、坂道をさらに下つていくと、そこはすでに目白台。そしてそこに、なんともう一つの鬼子母神があつたではないですか(註)。 

こわごわ入つていくと、三角形の井戸があり、そこから鬼子母神像が掘り出されたさうです。ではこちらが元祖鬼子母神なのだと思ひました。けれど、人ひとりをりません。谷底のやうな薄暗いところで、じめついた感じでしたので、長居は無用、すぐに表通りに出て、護國寺に向かひました。 

ぼくは、大寺院が好きではありません。なにか仰々しくて、たまに見かける坊さんや使用人の下卑たこと。ああいやだとそのたびに思ひました。もちろんコースですから、一應仁王門はくぐりましたけれど、トイレをかりただけで、すぐに惣門から出てきてしまひました。ご立派な重要文化財なんのそのであります。 

ゴールは間近、吹上稻荷神社に立ち寄つたあとは路地をぬけ、石段を上つたら、ゴールの地下鐵丸ノ内線の新大塚驛でした。午後三時五〇分到着、正味、一三五四〇歩。歸宅したら、一五六四〇歩でした。 

 

註・・鬼子母神堂(きしもじんどう)は法明寺の飛地境内(豊島区雑司が谷3丁目)にある堂。永禄4年(1561年)、山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。天正6年(1578年)、現在地に草堂が建立されたという。なお当所における正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の上の点がない字体である。 

 

今日の寫眞・・雑司が谷舊宣敎師館と、目白台にある元祖鬼子母神と鬼子母神像が掘り出された三角井戸。さいごは、路地から表通りにぬける石段。