九月八日(土)癸卯(舊七月廿九日・白露) 

 

氣持ちよく目覺めることができました。「闘病日誌」のついでに記しておくと、今朝の體重は、食べたおかげで少しふえてゐましたが、血壓は87~46でしたから、近頃では最低ですね。さらに、晝間はかつたら、70~50。これは處方されてゐる藥のせいとしか言ひやうがありません。そのかはり、不整脈が抑へられてゐるのでせう、最近はほとんどそれで苦しむことはなくなりました。だから、よほど氣をつけて立ち上がつたり歩きはじめないとあぶない状況であります。 

 

八月十四日に讀みはじめた、靑表紙本の 『源氏物語〈末摘花〉』 が讀み終はりました。けつこう面白かつたです。 

後半は、大輔命婦の仲立ちで、源氏は以後も末摘花のもとにお通ひあそばし、歌のやりとりまでしてゐます。その甲斐があつて、姫君もだいぶ心を開くやうになつていきます。といつても例の眞暗闇での「實事」は變はらぬやうですが、まあ、このへんでフェードアウトしていくやうに終はるのがいいのでせう。

 

ところが、大團圓と思ひきや、紫式部女史の嫌がらせなんでせうか、エピローグでもあるまひに、わざわざ源氏のいま一人の思ひ人、幼な妻・紫の上を登場させて、その「うつくしうきよらな」さまと對比して、いかに末摘花が醜いかを強調してゐるんですね。あたかも、そのことを書きたいがために、〈帚木〉〈空蝉〉〈夕顔〉 につづけてではなく、わざわざ 〈若紫〉 の卷のあとに、〈末摘花〉 を挿入したのだとすれば、これはもう嫌がらせといふしかないでせう。

 

「紫式部は末摘花を残酷に追い込んでおきながら、決してそこから末摘花自身を浮き上がらせようとはしなかった。当時の弱い者に対する容赦のない攻撃は、宮廷では常識だつたわけですから、彼女自身、自分の弱い立場で苦しんだはずだけれども、この段階では、同時に弱いものいじめを平気でする一員として生きていたんだという感を強くします」といふ、大野晋先生のご指摘をぼくも賛成するしかありません。

 

この末摘花、つぎは、同じくあとで挿入された「玉蔓系」の 〈蓬生〉 に登場する豫定です。それまでは、この二月に「紫上系」の 〈賢木〉 まで讀み終はつてゐるので、〈花散里〉〈須磨〉〈明石〉〈澪標〉 まで讀んでいけさうです。 

さうだ、〈花散里〉は、松尾聰編 『變體假名演習』(笠間書院) を學んでゐたときに、「演習用本文」の中に、『古今和歌集抄』 『伊勢物語抄』 『徒然草抄』 とともに、これだけは全文おさめられてゐたのでした。四年も前のことです。なかなか讀めなかつたことを思ひ出しました。それに、書き寫した人も違ふので、靑表紙本であらためて讀んでみます。 

 

それとまた、『源氏物語忍草〈上〉』(勉誠社文庫) の 〈空蝉〉と〈夕顔〉と〈末摘花〉 を、復習をかねて讀みましたら、くづし字がすらすら讀めてよくわかりました。まあ、要點だけを述べたダイジェストですから、これだけ讀んだのではあおのねちねちとした醍醐味は傳はつてはきませんですね。はい。