十月四日(木)己巳(舊八月廿五日) 小雨降つたりやんだり

 

素龍淸書本 おくのほそ道』 を讀了。素龍が芭蕉のために淸書したその複製本(註)の頁を、毎日少しづつめくりながらの旅でした。酒田、象潟あたりまでは地圖をかたはらに、イメージをかきたてながら芭蕉・曾良とともにみちのくのほそ道をたどり、酒田からは「北陸道」を一氣に南下。越後路では「病おこりて事をしるさず」なんて、いかにも筆不精なやうなことを書いてゐますが、ここは研究の餘地があるところのやうであります。 

もちろん、『曾良隨行日記』 によつて、師弟のたどつた跡はわかつてゐます。ぼくは、《北國街道を往く》(『歴史紀行 五十九』) の旅で訪ねた、出雲崎、柏崎、鉢崎、そして今町(直江津)を懐かしく思ひ出しました。

 

泊まるにあたつては不快なめにあふことも多く、柏崎では、「不快シテ出ヅ」と、泊まらずに先を進んだことが書かれてゐる不名譽な「天や」跡を訪ねたり、やはり直江津の聽信寺でもいやなめにあつたそのお寺を訪ねました。旅人をもてなすことを怠るととんでもないことになることを敎へられる記事です。

 

さう言へば、『歴史紀行 五十九』 でも觸れましたが、『奥の細道』 をはじめとする旅の數々において、芭蕉にとつて何が樂しみであつたか、『笈の小文』 の中でもらしてゐます。

 

「とまるべき道にかぎりなく、立べき朝に時なし、只一日のねがひ二つあるのみ。こよひ能(よき)宿からん(今宵は氣持ちのよい宿に泊まりたい)、草鞋のわが足によろしきを求んと許(ばかり)は、いさゝかのおもひなり。」

 

さうですよね、せめて、「こよひ能宿からん」かどうかが、氣になるところだつたやうですが、以後は幸ひ能宿に泊まることができたやうです。 

市振では、「一家に遊女もねたり萩と月」とよんだ、「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」も訪ねましたね。 

さらに、金澤、福井、敦賀を經て大垣へ。かうして、ぼくの 『おくのほそ道』 の旅も終りました。實際に歩けるかどうかは、今後の體調と相談してみませう。ですが、これからは、『奥の細道』 と云へば、『素龍淸書本 おくのほそ道』 を手もとにおいて繰り返し讀んでいきたいと思ひます。 

 

註・・・「素龍淸書本は芭蕉が清書させ、芭蕉自ら 『おくのほそ道』 と題簽を書いて、常に所持していたものである。現在福井県の西村家に伝えられている」、その複製(復刻)版が、手もとにある 『素龍淸書本 おくのほそ道』 です。 

尚、この複製本販売にあたつては、敦賀市教育委員会の宣伝文があります。 

 

「おくのほそ道」素龍清書本の復刻版販売のお知らせ─「おくのほそ道」素龍清書本として知られる、重要文化財「奥の細道元禄七年初夏素龍書写奥書」の復刻版を販売します。 

平成26年(2014)は、芭蕉没後320年でしたが、同時に「おくのほそ道」の決定稿である素龍清書本の完成後320年でもありました。元禄七年(1694)初夏、(北村季吟の次男正立の門下で)能書家の柏木素龍に託し完成した本書を、芭蕉は亡くなるまで肌身離さず持ち歩いていました。その死後、本書はさまざまな人々の手を経て敦賀の西村家に伝来し、今日まで守り伝えられてきました。敦賀市教育委員会では、あらためて「おくのほそ道」素龍清書本を、市民をはじめ全国の皆様に知っていただくため、従来から多くの要望をいただいている復刻版を刊行いたしました。 

 

今日の寫眞・・・『素龍淸書本 おくのほそ道』 の表紙。題簽は芭蕉の自筆ださうです。それと、《北國街道を往く》 で訪ねた、靑海川驛の下を流れる谷根川(たんねかわ)河口の鮭の遡上!