十月八日(月)癸酉(舊八月廿九日) 曇り

 

《「靑表紙本」で讀む 『源氏物語』》、たうとう〈須磨〉に入りました。叙述文といふのでせうか、會話が少なくて、物語風に事態が展開していくので、變體假名でもすらすらとよみすすめます。とは言つても、いままでとは異なつた筆なのでせうね、初見の變體假名がいくつか出てきますし、獨特な筆づかいであることは間違ひありません。それも數頁よめばなれてきました。

 

ところで、「朧月夜との不義が弘徽殿女御に知れ、源氏は謀反の罪を着せられて、官位を剥奪されてしまつた。ついに都にも居づらくなり、須磨に退去すると決める」、といふのが、〈須磨〉の卷の冒頭數頁の内容です。が、この内容はあくまでも、〈賢木〉の卷と〈須磨〉のはなしを總合して述べてゐるのであつて、本文をよむ限り、いつ罪を着せられたのか、いつ誰から官位を剥奪されたのかは記されてゐません。さう讀んでくれるだらうといふのが著者のねらいなのかも知れませんが、だからといつて、參考書に書いてある、この段落の冒頭の引用文などをはじめから受け入れてはならないといふのが、ぼくの感想です。 

でないと、弘徽殿の女御はじめ右大臣とその派閥がはじめから惡役であることを印象づけてしまひかねません。いや、それが著者の意圖ならばいいとしても、現代のどこの誰かも知れない研究者や編集者が書いたことをはいはいと、何も考へないで受け入れることもないでありませう、といふのがぼくの率直な意見です。はい。

 

それにしても、右大臣派に捕らはれる前にといふことなんでせう、これにはだいぶ源氏はいいかつこしいをしたかつたやうにも見受けられました。捕まつて恥をかくよりは、逃亡をはかることにしました。ではどうして須磨なのかは、これまた自分で探究していくしかないと思ひます。 

ところが、都からの退去といふか逃亡に際して、お別れする方々が多くて、このまま去つては薄情だと思はれはしないかと、あちらにもこちらにも、顔をだすものですから、それだけで一〇三頁のうち、今三〇頁のところなんですが、まだんでをりません。いつ出發するのかしらと、心配になるほどです。いいかつこしいといふのもおわかりかも知れません。 

まあ、修羅場といへば言へなくもありませんが、これも儀式であるのでせう。源氏の君の人脈がわからうといふものです。 

 

變體假名で讀む日本古典文學も、數へれば十指にあまるほど讀み進んではきましたが、山脈のやうに連なる峰々のなかでも、『源氏物語』 は最高峰でありますから、一氣に登れるとは思つてをりません。それでも、塵も積もれば何とやらといつた按排で、五十四帖のうち十二帖まで一應讀破いたしました。まあ、そんないばれるものぢやあありませんが、たかが讀書ですから、讀んで樂しければそれでけつこう。まだまだおあとが控へてをります。