十月十九日(金)甲申(舊九月十一日) 曇りのち曇天

 

加藤周一さんの 『富永仲基異聞―消えた版木』(かもがわ出版) 讀了。これには、表題の〈戯曲草稿〉と、湯川秀樹氏との對談「言に人あり」と、『三題噺』より「仲基後語」がおさめられてゐます。その中の對談で、ちよいと氣がつかせられたのは、加藤周一さんの次のことばです。 

 

「私は日本の文化に、二つの層を考えます。一つは、神道ということばでばく然とよんでいるような、佛敎以前の信仰ですね。そういう自然宗敎みたいなものがあって、・・・他方、そういう世界に佛敎と儒敎が同時に入ってきて、・・・もっとあとになると、西洋思想が入ってくる。・・・それがだんだん消化されてくると、そのなかで本来の地盤とのあいだに相互反応をおこして、いわゆる日本化された佛敎、日本化された儒敎的世界が成り立つ。・・・それが一つの芸術の流れで、他方にはその影響をうけないで、たえず下から出てくる芸術の流れがある。 

たとえば 『古今集』 は、外国の宗敎の影響のない文化で、佛敎の影響も、儒敎の影響もほとんどない。同じ時代でも 『落窪物語』 は、まったく儒敎的な道徳を説いていますね。そして 『源氏物語』 は、外的要素と本来の土地柄とのあいだのひじょうに微妙な調合の上に成り立っている。・・・しかし江戸文化の底流には、西鶴のように、ほとんど儒敎、佛敎の影響のないものがある。・・・けっきょく日本歴史というものは、佛敎(外来イデオロギー)の衝撃と、本来日本的な世界観とがたえずたたかう戦いの歴史だと思う」 

 

まあ、うすうすは承知してゐたことですけれど、かうはつきり示されると、日本の古典文學讀破をめざすものとして、意識せざるを得ませんですね。以後念頭において讀んでいきたいと思ひます。

 

尚、富永仲基の著書である 『翁の文』 は、活字では原文も現代語譯もあるけれども、できれば變體假名の本文を讀んでみたい。ネットでさがしても見つからないので、古本市で探すしかありませんね。