十一月十一日(日)丁未(舊十月四日) 

 

『徳川吉宗とその時代』 の〈第一部 将軍吉宗と尾張宗春〉を讀み終はつてみて、改めて先日求めた和本の 『温知政要』 がとても重要かつ貴重な本であることがわかりました。なにせ幕府から發禁處分とされ、版木まで没収された内容の書ですからね。

 

『徳川吉宗とその時代』 によると、「尾張宗春の政治観・人生観を知りうるものとしていちばん有名なものは、『温知政要』 という本である。この本は、・・・享保十六年(一七三一)の三月中旬に脱稿、藩士たちに配ったもので、いわば新任藩主としての宗春の政治理念の開陳といったものであった」。それは、「当時進行していた将軍吉宗の享保の改革の理念とは正反対に近いもので」、例へば、『温知政要』 の第七條には次のやうに書かれてゐる。

 

「すべて人には好き嫌いのあること也、衣服食物をはじめ、物ずきそれぞれに替る也、しかるを我好む事をば人にも好ませ、我嫌なる事をば人にもきらわせる樣に仕なすは、はなはだせわしき事にて、人の上たる者、別してあるまじきこと也」。他にも、法令は數少なくかつ具體的なほどよい、とも。その最たるものは、「そもそも為政者にとっての倹約というのは、民をむさぼらず、万民の生活と心を安んじる、というところにその本義があるので、自分自身がむやみに倹約して、それを他人に強要するなどもってのほかだ」といふところですね。 

これらは、將軍を直接揶揄・批判した内容だとして、結局吉宗を怒らせてしまひ、「強制隠居」といふ、いはば幽閉されてしまつたのは悲しい結末でした。

 

ですから、ぜひ讀んでみたいのですが、寫本なので文字も流暢、よく讀み取れないのが殘念であります。奥書には、「嘉永二己酉歳霜月謹而寫之 岡猪三郎」 とありまして、しかも、つづけて 「予文筆拙しといへとも」云々と、それ以下が讀めなくてまだるつこいのですが、なにやら書き寫した理由を述べてゐるらしいのです。嘉永二年と言へば、一八四九年、宗春が書いてから百年以上もたつてから書き寫したものです。岡猪三郎といふ人が、何のために、また誰のために書き寫したのでありませうか。がんばつて讀んでみたい! 

 

また、奈良本辰也編 『日本の私塾』 の中の 「懐德堂─中井甃庵」 を讀みました。十月に讀んだ、『富永仲基異聞―消えた版木』 や 『風狂奇行』 を思ひだしつつも、ここでは、上田秋成が登場し、懐德堂については懐疑的といふか冷めた目でみてゐたことがわかりました。ですが、秋成が、「人間、社会の深層を、もしとらえ得るとするならば怪奇な幻想のなかにしかないとみる」のにたいして、中井履軒が、「幽霊とか狐つきとかは元来存在するものではなく、癇癪病、現代ふうにいえばノイローゼの結果だと言下に言い放ち、秋成を嘲けった」。といふ合理主義が底流に流れてゐたからこそ、儒敎、佛敎、神道を批判した富永仲基や合理主義者・山片蟠桃らが輩出されたのだと知りました。「いわば大坂商人を背景とする透明な合理的世界が支えた懐德堂の思想的伝統」によるといふことです。 

 

昨夜寢る前にテレビをつけたら、《ETV特集 没後40年 ユージンスミスの水俣 写真は小さな声である》 が目に飛び込んできて、たうとう最後まで目が離せませんでした。悲な水俣。その加害者であり責任者であるチッソの社員たちが、ユージンスミスはじめ陳情に行つた水俣關係者に激しい暴力をふるふところは正視できませんでした。映像とともに流れる音聲があまりにも生々しい! しかしその生々しさが現在もなほつづいてゐるかと思ふとゐてもたつてもゐられないほどでした。 

 

今日の寫眞・・・『温知政要』 の第七條と奥書の部分。

我が家の勝手裏に捨てられてゐた二匹! 可愛いかつたら手放さないでせうに。どうしませう?