十一月十五日(木)辛亥(舊十月八日・上弦) 快晴

 

昨日は、ミニかつ丼(300圓でした!)をいただいてから、早稻田通りに出た向かひにある穴八幡宮を訪ねました。「早稲田青空古本祭」は、以前はこの境内で開かれてゐたので、なじみの場所なのですが、今日はいささか神妙な氣持ちで訪ねました。

 

じつは、昨日から、ふと手にした、芦原伸著 『へるん先生の汽車旅行 小泉八雲と不思議の国・日本』(集英社文庫) を讀みはじめたので、氣分は「へるん先生」だつたのです。そこで思ひ出したのが、へるん先生が紹介してゐる 「ある女の日記」 です。 

詳しくは、『歴史紀行 十三 中仙道を歩く(三)』(蕨宿~大宮宿 二〇一三年二月廿日) で書いたのですが、「死後の地獄からの救ひ主と信じられた」地藏信仰との關連で、子どもを宿しては亡くしてゐた「ある女」が、「穴八幡に參詣して子供の息災延命を祈つた」といふ場面があつたからです。以下、紀行から引用しておきます。 

 

小泉八雲の 『ある女の日記』 を讀んだことがあるでせうか。八雲が偶然手に入れた、實際に明治の終り頃生きた「ある女」の日記です。そのころにしては すでに婚期を逸してゐた 「ある女」が、結婚をし、つぎつぎに、三人の子どもが生まれるのですが・・・。 

「明治三十年六月八日午後四時、男子出世。・・・翌日、六月九日午後六時半、子供は突然死んだ。僅か一日母と呼ばれ、ただ死ぬのを見るために子供を生んだのであつた。(中略) 

明治三十一年八月三十一日、二番目の子供が殆んど何の苦痛もなく出生。女であつた。初と名づけた。・・・ 

三十二年四月三日。穴八幡に參詣して子供の息災延命を祈つた。 

四月二十九日、初は病氣のやうで私は醫者に診て貰ふことにした。・・・三田の奥さんが世話に來て下さつた。そのお蔭で子供を助けるためにできるだけの事をしたしかし心配や世話した事は皆無駄になつた。それで五月二日、子供は十萬億土の歸らぬ旅へ赴いた。(中略) 

…今度もまた こんな不幸があつて、夫に嫌はれるやうにならないまでも、こんなに代る代る子供に別れるのは、前世に何か犯した罪の罰に相違ないと獨りで思つた。さう思へば袖のかわく間もなく涙の雨も止まず、私のためにはこの世で空は晴れる事がないやうに思はれた。」 

そして、遺骨を納めたとき、「樂しみもさめてはかなし春の夢」 と詠んでゐますその本人もまた 後を追ふやうにして、三十三年三月二十八日に亡くなるのです。「前世の罪」を抱きながら。これが「地獄は必定」の思ひといへるのでせう。この思ひを本當に受けとめてくれるのはどんな救ひ主なのでせうか。 

 

長い引用になつてしまひましたが、ぼくはこの 『ある女の日記』 を涙なくしては讀めませんでした。そして今、あらためて讀んでみて、へるん先生の後記といふか、へるん先生ご自身がこの「日記」を讀んで書かれた感想がまた心打つのです。こんにちのぼくたち日本人は、なにか大切なものを忘れてしまつてゐる。さう思はざるを得ません。一讀あれ!

 

ところで、『へるん先生の汽車旅行』 は、並の紹介本ではありません。へるん先生の人生を追體驗してゐるやうな、そんな氣分にさせられるとともに、讀み齧つてきたにすぎなかつた小泉八雲を、全集で讀み通してみたくなりました。