十一月廿七日(火)癸亥(舊十月廿日) 

 

和本の整理を續行しながら、『伊那の中路 眞澄遊覽記』 を讀み進みました。さうしたら面白いといふかたいへんなことに氣がつきました。それは、東洋文庫版の 『菅江眞澄遊覧記1』 にはだいぶ省略があるといふことです。

 

たしかに、宮本常一さんの〈まえがき〉には、「今回東洋文庫に五册にまとめて収める 『遊覧記』 は、それらの和歌の多くを除き」、とあるのですが、それらが「あまり上手でない歌」としても、眞澄は、白井秀雄として、和歌を専門に學んでゐたのであり、烏丸光廣の 『あづまの道の記』 を書寫した 『二葉紀行 白井秀雄手寫』 を殘すほどに研鑽を積んだゐたことはたしかなので、この和歌を除いてしまふといふのは、いくら敬愛する宮本常一さんだからと言つて、ちよいと許せない氣持ちです。 

いや、和歌だけではなく、和歌を含めた本文をも除いてあるのです。「本書は今日までの眞澄研究の到達点を示す」とあるだけに、ぼくとしてはだいぶ不滿であります。 

ちなみに、除かれた文章を書き寫してみませう。

 

五月の五日、七久保(窪)の里(長野縣上伊那郡中川村)にて、田植ゑの準備とともに、忙しく養蚕の仕事に從事する人びとの樣子を克明に觀察し終へたのち、「けふのせく(節句)も軒にあやめしるしばかりにさしていはひたり」と言葉をむすんだあと、東洋文庫本では、「よたぎりといふ石ばしるはや川を」(よたぎり川という急流のところまで来ると)と、場面ががらりと變はり、その間數行飛び越してしまつてゐるのです。そこを原文で埋めてみます。 

 

「此苅敷てふことを、歌にも作り侍るへきかと人のいへは、 

  〈あやめ草處もひとつにかりしきてこよひいづこに夢やむすばん〉」 

 

苅敷(かりしき)」といふのは、田植ゑの前に、若葉の出た枝を田のなかにすき込んで肥料とする農作業のことのやうです。 

それにしても、歌のよしあしはぼくにはよくわかりませんが、この二行を省いてしまつた意図がわかりません。殘念です。 

長野縣の地圖を見ながら讀むと、また格別で、先が樂しみです。 

 

今日の寫眞・・・『伊那の中路 眞澄遊覽記』 の右頁は眞澄の描いた景色です。左頁の二、三行目には、西行の和歌が引用されてゐます。